先日、5/25に地元・大阪の都心部を巡ってみました!
大阪の歴史はとても古く、かつてこの地は「難波」「浪速」などと表記して「なにわ(なには)」と呼ばれていました。
古くは仁徳天皇の皇居として「難波高津宮(なにわのたかつのみや)」。
飛鳥時代の孝徳天皇の御代には「難波長柄豊崎宮(なにわのながらのとよさきのみや)」。
そして奈良時代の聖武天皇の御代には副都として「難波京(なにわのみやこ)」が置かれました。
そう、古い時代にはここ「大阪」「難波」の地が日本の政治の中心だったこともあるのです!
(※以下、この記事では「難波」という地名を古代における大阪の地を指す名称として使用します。)
さて、古い時代の政治は祭祀と深く結びついていました。
難波の場合、特に関わりの深い神社は住吉区に鎮座する「住吉大社」です。
住吉大社については #11 で詳しく取り上げているのでよろしければご覧くださいませ。
【#011】大阪市・堺市の旅!大阪は海に関係する神社がいっぱい!
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そもそも難波に置かれた難波京などの都は奈良に対する外港としての役割が大きく、それゆえに航海の神を祀る住吉大社が重視されてきたのです。
一方で住吉津は難波京などの都から見て少し南へ離れた場所でもあります。
というわけで今回は難波、つまり古代における大阪のあれこれを辿っていきます!
都合上、今回は先日の旅に加えて過去の複数の旅も含めてまとめていますのでその点予めご了承を。
目次
【前半】まずは大阪の三つの神社へ!
今回の記事は前半と後半に分かれます。
前半パートはまず大阪の都心に鎮座する三つの重要な神社へ参拝してみましょう!
宮中の神様を祀る「坐摩神社」へ
早速ですが最初に紹介するところは今回でなく過去の旅のものです。
まずは大阪市中央区の本町というところへやってきました!
この辺りはまさに大阪の経済の中心とも言える場所。全国的にもトップレベルのビジネス街です。
古くこの辺りは船場(せんば)と呼ばれ、江戸時代から大いに栄えたところです。
このようなビルと高速道路に囲まれた大都会な風景の中に「坐摩神社」が鎮座しています。
読み方の難しい神社で、「坐摩」と書いて「いかすり」と読みます。
境内の入口は奈良県の大神神社で見られる「三ツ鳥居」と呼ばれる形式。
三つの鳥居を一直線上に並べたものですね!
鳥居をくぐって早速参拝しちゃいましょう!
坐摩神社では梅雨時になると紫陽花の鉢植えが並べられ、境内が華やかに彩られます。
訪れたときはちょうどこのタイミングでした!
さて坐摩神社について。
まず坐摩神社は1100年前に編さんされた法典『延喜式』に載っている神社、つまり式内社です。お馴染みですね!
さらに時代が下ると住吉大社と共に摂津国一宮ともされました。
摂津国、つまり今の大阪府北部から兵庫県南東部にかけての中で最も格式の高い神社の一つだったのです!
ただ、やはり神社の規模や格式などは住吉大社には及ばなかったようです。
坐摩神社では次の五柱の神様を祀っています。
- 生井(いくい)神
- 福井(さくい)神
- 綱長井(つながい)神
- 波比岐(はひき)神
- 阿須波(あすは)神
皆さんはこれらの神々の名前を聞いたことがありますでしょうか?
実際、他の神社ではほぼ祀られることのないとっても珍しい神様です!
そして実はこの神様、『延喜式』に朝廷の祭祀を司る神祇官の敷地に祀られる神様として載っているのです!
ただ、この五柱の神様がどのような神様だったのかははっきりしません。
一説に「生井神」「福井神」「綱長井神」の三柱は名前に「井」が付くことから水に関係すると言われています。
「波比岐神」「阿須波神」の二柱はさらにはっきりしないものの、一説には土地の神様や家屋の神様であるとも。
いずれにしても宮中の神様が難波の地で祀られたことになります。
これはやはり難波が古く奈良と共に政治の中心だったことと関係がありそうですね!
ところでこちらの坐摩神社、かつては全く別のとある地に鎮座していました。
戦国時代になってある出来事をきっかけに今の地に遷ってきたのです。
このことについて後半で詳しく取り上げるので覚えておいてくださいね!
坐摩神社の地図
詳細:『神社巡遊録』坐摩神社(大阪府大阪市中央区久太郎町渡辺)
皇室の重要儀式に関わる「生国魂神社」へ
さて話を今回の旅に戻します。地下鉄で谷町九丁目という駅へ。
近鉄電車の大阪上本町駅からも近いですよ!
駅の南西方面へ向かうと「生国魂(いくくにたま)神社」という神社が鎮座しています。
鳥居をくぐって早速参拝しちゃいましょう!
こちらの本殿は「生国魂造」と呼ばれる特有の形式ですが、残念ながらあまりよく見えません。
さて生国魂神社について。こちらも例に漏れず『延喜式』に載っている式内社です。
しかも名神大社とも記載され、単なる大社だった坐摩神社よりも格の高い神社だったのです!
社伝によれば神武天皇が東征にあたり神を祀ったと言われています。
しかし神武天皇の存在やその事跡は伝説的な要素が色濃く、神武天皇に創建を求める社伝もそのまま事実と認めることはできません。
一方で生国魂神社の御祭神は「生島(いくしま)神」「足島(たるしま)神」という二柱の神様です。
これまたあまり馴染みのない神様ではないでしょうか。
実はこの二柱の神様もまた坐摩神社の神様と同じく、『延喜式』に神祇官の敷地に祀られる神様として載っているのです!
ということは、生国魂神社もまた坐摩神社と同様、難波が政治の中心だったからこそ祀られたのかもしれませんね。
それでは生国魂神社に祀られる「生島神」「足島神」とはどういう神様なのでしょうか?
『古語拾遺』という平安時代の古い文書によれば、「生島 これ大八洲の霊、今は生島巫の奉斎する所なり」とあります。
大八洲(おおやしま)とは日本列島のこと。つまり日本の国土の神霊が「生島神」だった、ということになるのでしょう。
そしてその神霊は生島巫(いくしまのみかむなぎ)という専門の神職が祀っていたようです。
ではそのような重要な神様がなぜ難波の地に祀られたのか。
そのヒントとなるのが「八十島祭(やそしままつり)」です。
八十島祭は平安時代から鎌倉時代にかけて、天皇の即位儀礼の一つとして行われたもの。
そしてこの八十島祭が行われたのが難波津、つまり難波にあった港です。
当時の難波津は淀川が運んできた大量の土砂によって多くの中州(島)が形成されており、その光景を「八十島」と呼んだと考えられます。
この「八十島」と呼ぶべき難波津で行われたのが八十島祭。
即位儀礼であることから重要な儀式だったことは間違いありませんが、残念ながら詳細ははっきりしません。
断片的に伝わる内容としては、難波津において祭使が天皇の衣の入った箱を琴の音に合わせて振る、というものだったようです。
その意味するところは、八十島で国土の霊を招いて天皇の衣服に付着させ、新しく即位する天皇がこれを着用することで国土を支配する権威を得る呪術的な儀式だったのではと一説に言われています。
さて、生国魂神社は上町台地と呼ばれる台地の上に鎮座しています。
社地は上町台地が北西に突き出たところ。境内の北側には「真言坂」と呼ばれる坂があり、高低差を実感できます。
しかし実は生国魂神社もまた昔からここに鎮座していたわけではありません。
坐摩神社と同様、同じ出来事で別の地から遷ってきたのです!
これもまた後半で詳しく取り上げるので覚えておいてくださいね。
生国魂神社の地図
詳細:『神社巡遊録』生国魂神社(大阪府大阪市天王寺区生玉町)
難波の都ゆかりの「高津宮」へ
さて次は再び過去の旅から。といっても生国魂神社からすぐのところですよ!
生国魂神社から北へ。千日前通りを渡ってすぐのところに次の目的地「高津宮(こうづぐう)」が鎮座しています。
鳥居をくぐって長い参道を進んでいきます。
高津宮は大阪市内の桜の名所の一つ。訪れたときはちょうど見頃でした!
桜だけでなく足元にも注目したいところ。
平坦な大阪市内にも関わらず石段があり、起伏の大きな地形であることがわかりますね!
ここは上町台地とはちょっと離れた独立した台地となっています。
ちなみにこの記事のアイキャッチ画像はここで撮影したものですよ!
石段を昇っていくと社殿が建っているのでお参りしちゃいましょう!
高津宮は『延喜式』に載っておらず式内社ではありません。
とはいえ大阪の都心部では古い神社の一つで、社伝ではその創建は貞観八年(866年)に遡ります。
社伝によれば清和天皇の勅命で「仁徳天皇」の皇居の遺跡を探させ、その地に仁徳天皇を祀ったのが創建と伝えられています。
仁徳天皇は第十六代天皇で、もし実在していたならば古墳時代の四世紀~五世紀頃の人物と考えられます。
全国最大の古墳である堺市の大仙陵古墳(仁徳天皇陵)の被葬者(※諸説あり)としても有名ですね!
仁徳天皇は難波の地に都を置き、その都は「難波高津宮(なにわのたかつのみや)」と呼ばれました。
仁徳天皇は善政を行ったことでも知られており、「聖帝」と呼ばれることもあるほど。
有名な逸話の一つとして、民家の屋根から煙が昇っていないことから民衆の困窮を知り税と労役を免除した、というものもあります。
また多くの治水工事や灌漑工事を行って農地を開拓し収穫の増加に努めたことも『日本書紀』などに記されています。
このように難波に都を置いた仁徳天皇は民衆に寄り添った政治を行い素晴らしい業績を残したとされています。
このため大阪の地の人々は古くから仁徳天皇を敬愛してきたのです!
さて高津宮も例によって別の地から遷ってきたと伝えられています。
やはり坐摩神社や生国魂神社の例と全く同じ出来事によってこの地に遷されました。
ではこの難波に鎮座する三社の古社が別の地に遷らなければならなかった出来事とは何なのでしょうか?
また元々鎮座していた地はどのような場所だったのでしょうか?
この点は次の章でじっくり解説しちゃいます!
高津宮の地図
【後半】古代の難波の中心!?上町台地の先端へ!
さてここからは後半に入ります。
前半で紹介した三つの神社はいずれも別の場所から遷ってきたと紹介しました。
そして遷ってきたきっかけも同じ出来事だとも。
後半ではこの点について探っていきます!
ちなみにここからは全て今回の旅の写真となります。
豊臣秀吉が築城した「大阪城」へ
高津宮や生国魂神社から北へ向かい、「大阪城」へとやってきました。
豊臣(羽柴)秀吉が築いた城としてとっても有名ですね!
近年は外国人観光客に大人気のスポットとなっており、常にたくさんの人であふれるところともなっています。
天守閣は戦前に再建されたコンクリート造のもの。復興天守とはいえこれはこれで価値ある建築として近年は評価されているようです。
一方で石垣や大手門、多くの櫓など江戸時代以来のものも多く残っています。
ここ大阪城は上町台地の北端にあたる場所に立地しています。
上町台地は生国魂神社でも少し触れましたが、大阪城から南へと伸びる台地のことで住吉大社の辺りまで続いているのです。
上町台地は大阪平野を一望できる地形で、その先端にあたる地はまさに軍事拠点としてうってつけでした。
大坂城が築かれる前はここに浄土真宗の一大拠点「石山本願寺」があり、織田信長がその攻略に非常に苦労したことはよく知られています。
そして大坂城以前にここにあったのは石山本願寺だけではありません。
実は前半で二番目に訪れた「生国魂神社」も当初はここにあったのです!
上町台地の先端からは恐らく「八十島祭」の行われた中州が見渡せたのでしょう。
生国魂神社はこうした「八十島」と呼ぶべき数々の中州を台地の上から守護してきたのかもしれません。
そしてここまで解説したらきっとおわかりでしょう。
生国魂神社が今の地に遷ったのは豊臣(羽柴)秀吉が大坂城を築いたためなのです!
大阪城の地図
水運上の一大拠点だった「坐摩神社行宮」へ
大阪城から西の方へとやってきました。
天満橋と天神橋の間にビルに囲まれるようにして「坐摩神社行宮(あんぐう)」があります。
行宮とは仮の宮という意味ですが、ここでは御旅所のこと。
かつては坐摩神社の神事の際に神輿をここまで運んだことが江戸時代の記録に記されています。
境内はビルに挟まれた長細い空間。最奥部に社殿が建っているのでお参りしちゃいましょう!
ちなみに境内や社殿は2023年に大規模な整備が行われました。
さて、社殿前の手水舎のところにはこのような岩石がガラスケースに収められています。
伝承ではこの石は神功皇后(じんぐうこうごう)がここで休息したと伝えられていて「鎮座石」と呼ばれています。
この地の地名「石町(こくまち)」はこの鎮座石に因むともいい、神聖な石であるとともにこの地のシンボルでもあったのでしょう。
ではそもそもどうしてここが坐摩神社の御旅所となっているのでしょう?
実は何を隠そう、この辺りこそが坐摩神社の元々の鎮座地だったのです!
社伝では神功皇后が三韓征伐の帰途にこの地で坐摩の神を祀ったと言われています。
鎮座石の由来に神功皇后が登場するのはこれに関連するから、というわけです。
坐摩神社がここから現在の地に遷ったのは天正十一年(1583年)のこと。
生国魂神社と同様、豊臣(羽柴)秀吉が大坂城を築いたため遷ることになったのです。
坐摩神社行宮は上町台地の北西端にあたる地に鎮座しています。
ここから少し北へ歩けば大阪のシンボルの一つ、大川という文字通り大きな川が流れています。
実は大川はかつての淀川の本流でもあります。
さらに古く遡ればこの辺り一帯が海で、上町台地は海に突き出た岬でもありました!
この岬の先端は瀬戸内海と奈良や京といった都を中継する水運上の最重要拠点として発展。これが古代の難波津だったのです!
次第に周囲が陸地化していっても淀川河口の港として舟運の一大拠点であり続けました。
ここにあった港を「渡辺津(わたなべのつ)」といい、中世には水軍の棟梁として台頭した渡辺氏が拠点を置いたのです。
しかし豊臣(羽柴)秀吉は城のすぐ近くに渡辺氏が存在することを疎ましく思い、退去を命じました。
坐摩神社もこれに伴って遷されることになったようです。
なお、現在の坐摩神社の住所は「大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺」となっています。
住所の最後に「渡辺」が付くのは渡辺津から遷ってきたことを反映したものです。
坐摩神社行宮の地図
幻の大極殿!?「難波宮跡」へ
さて、残る神社「高津宮」について、その旧地は仁徳天皇の皇居の遺跡だというお話でしたね。
しかし残念なことにその旧地がどこにあったのかはわかっていません。
そしてもちろん、仁徳天皇の皇居「難波高津宮」の場所も不明です。
ただ、高津宮もまた大坂城の築城にあたり現在地に遷ったと言われているので、生国魂神社と同様、現在の大阪城の辺りにあったのかもしれません。
前期難波宮
一方、仁徳天皇から時代が下っても難波の地は政治の中心となることがありました。
その様子を探るため、大阪城から中央大通りを挟んで南側へ。そこにはとても大きな公園があります。
実はこのだだっ広い敷地、飛鳥時代以降に造営された「難波宮(なにわのみや)」の跡地なのです!
大化元年(645年)に孝徳天皇はこの地に遷都し「難波長柄豊崎宮(なにわのながらのとよさきのみや)」としました。
そして唐の政治制度を取り入れて律令制に基づく国家体制を整備する「大化の改新」をこの地で断行したのです!
しかし天武天皇の朱鳥元年(686年)には残念ながら火災によって全焼してしまいます。
後期難波宮
さて難波宮の跡地は現在は遺跡公園として整備されており、その中央北側にはこのような基壇が設けられています。
これは難波宮にあった大極殿、つまり最も中心となる建物の跡地で、その上に基壇のイメージを再現したものです。
難波宮の火災から40年後、神亀三年(726年)に聖武天皇は難波の地に平城京の副都を造営しました。
唐の技法を用いた本格的な都市が造営され、これは「難波京(なにわのみやこ)」と呼ばれました。
宮殿も唐の様式に倣ったもので、先に見た大極殿の跡地もこの難波京のものなのです!
唐では都を複数に置く副都制を採用し、皇帝が居住する都を「皇都(こうと)」、その他の皇帝のいない都を「陪都(ばいと)」と呼びました。
唐の制度に倣った日本でも副都制が採用され、皇都たる平城京に対し、難波京は陪都として位置づけられました。
政治の中心は基本的に平城京でしたが、港湾のすぐそばにあった難波京は外交や交易の場として非常に重要な都だったのです。
さらには、ごく僅かな間ですが天平十六年(744年)には一年間だけ難波京への遷都が行われ、一時的に皇都になりました。
しかしその後、平城京から長岡京、そして平安京へと遷都するにあたり難波京は廃止。平安京が日本唯一の都となる時代が1000年以上続くことになるのです。
なお、朱鳥元年(686年)に火災に遭うまでの難波長柄豊崎宮は「前期難波宮」、神亀三年(726年)の再造営以降の難波京の宮殿は「後期難波宮」と考古学や歴史学の分野で呼ばれています。
これら難波宮の所在地は長らく不明でした。しかし戦後に行われた数度の発掘調査により、この地で検出された遺構が難波宮であることがわかったのです!
そして昭和三十六年(1961年)には遂に後期難波宮の大極殿の遺構を発見。このとき発掘調査にあたった山根徳太郎氏が残した言葉「われ、幻の大極殿を見たり」は非常に有名です。
まとめ
さて今回はこのように大阪市内の神社を巡りつつ、難波が政治だった時代を探ってみました。
難波宮の遺跡を見た後にもう一度振り返ってみると、やはり坐摩神社と生国魂神社は難波宮と深く関わるのではと思わずにいられませんね!
今回は取り上げなかったものの、推古天皇元年(593年)に本格的な仏教寺院として聖徳太子が建立した「四天王寺」なども難波の地の重要性を物語るものです。
大都会としての都市景観に埋もれがちですが、今回のように注意深く大阪の町を歩いてみると千数百年の歴史を発見できるのです!
アイキャッチの元画像はCi-enの記事に公開しているのでこちらも是非見てみてくださいね!