今回も過去編の記事!以前に奈良県天理市の神社を巡った時のお話です!
みなさん天理市といえば何を思い浮かべますか?
多くの方は天理教を思い浮かべるのはないでしょうか。
天理駅を降りると天理教の法被を着た人たちが大勢。
そして天理市の中心部にはめちゃくちゃデカい天理教の本部!
こうした国内でも稀な光景はまさに「宗教都市」だと言えます!
でも実は天理市は新興宗教の天理教だけではありません。
とっても古くから祀られてきた神社もたくさんあるのです!
しかも天理教に劣らず立派な神社!
今回は天理教そっちのけでこうした神社を訪れてみようという旅。
どんな旅になるのか楽しみですね!
目次
奈良県天理市へ!
まずは長柄駅へ
奈良県を旅する時は近鉄電車に乗るのが鉄則ですが今回はあえてJR。
奈良駅から万葉まほろば線(正式には桜井線)の電車に乗ります!
珍しくこの日は転換クロスシートの豪華な電車に当たりました!
今回は天理駅の一つ先、長柄駅というところで下ります。
万葉まほろば線は古い木造駅舎が多いのですがこの駅は現代的ですね!
大和の国魂を祀る「大和神社」へ
長柄駅から南東へ歩いていくと一つ目の目的地「大和(おおやまと)神社」が鎮座しています!
鳥居をくぐるとうっそうとした森の中にとっても長い参道が続いています!
さらに参道を進んでいくと奥に社殿が見えてきます!
まずは拝殿で参拝しちゃいましょう!
拝殿の奥に三棟の本殿が建っているのですがあまりよく見えません。
さて大和神社の御祭神は「日本大国魂大神」「八千戈大神」「御年大神」の三柱。
こちらはおなじみ式内社、つまり1100年前の法典『延喜式』に記されているのですが、そこでは「大和坐大國魂(やまとにいますおおくにたま)神社」という仰々しい名前で記されています。
実はこの神様、『延喜式』に記されている名前の通り、大和の国魂(くにたま)、つまり国土を神格化した神様なのです!
まず国魂とは何かという話ですが、江戸時代の国学者である本居宣長は次のように述べています。
「その国を経営坐(つくりまし)し功徳(いさお)ある神を国玉国御魂と云ふ」
つまりその国土を形成し守護する神が国魂である、というわけですね!
ただしここで注意点。
『延喜式』に記されている名前にある「大和」とは、実は日本全体でなく狭義の大和国、つまり今の奈良県のこと。
つまり狭義の大和国(今の奈良県)のみの国魂、というわけです!
古代の都は基本的に大和国にあり、ここから王権の支配力が日本列島の大半に広がっていったため、大和と日本が同一視されるようになっていきました。
それに従って大和神社も日本全体の国魂を祀るとする解釈もあったかもしれません。しかし基本的には狭義の大和国です!
ちなみに大和神社の創建の様子は、実は『日本書紀』に載っています!
ただその内容はちょっと長くなってしまうので、詳細を知りたい方は姉妹サイト『神社巡遊録』の大和神社の記事をご覧ください!
大和神社は戦前に建造された戦艦大和ゆかりの神社としてそれを記念する石碑が建っています。
日本の軍艦には戦前・戦後を問わずその戦艦の名前にゆかりのある神社の神様を守護神として祀っており、これを「艦内神社」と呼びます。
そして大日本帝国海軍の建造した当時世界最強とも呼ばれた戦艦「大和」は、ここ大和神社から神様の分霊を遷して艦内神社としたのです!
戦艦「大和」の由来は旧国名としての大和国ですが、大日本帝国海軍は日本が誇る最強の戦艦として「日本」の意味を含むダブルミーニングで名付けたのかもしれませんね!
大和神社の地図
天理駅と天理教本部
長柄駅から一駅戻って天理駅へと来ました!
JRと近鉄の乗換駅にもなっていてとても大きな駅ですね!
天理駅からはとっても長い商店街が伸びています!
一見普通のアーケード商店街ですが、よく見ると天理教関連のグッズが売ってたりしてちょっと普通とは違う様子。
そしてすれ違う人は多くが天理教の法被を着ています!
そう、この商店街は天理教本部の参道を兼ねているのです!
商店街を進んでいくと天理教本部が見えてきます!
とっても大きくて重厚な建物ですね!
天理教は江戸時代末期から明治初めにかけて活躍した中山みきという人物を教祖とする新興宗教です。
ただ今回のテーマとは逸れてしまうので天理教についての詳細は割愛。
ちなみに上の写真も今回とはまた別のときに記録したものだったりもします。
とはいえ新興宗教が特定の都市においてこれほど存在感を発揮するのはとっても珍しいですね!
物部氏が祀ってきた「石上神宮」へ
さて天理教本部からさらに山の方へと歩いて行くと、これまた大きな神社があります。
ここが次の目的地「石上(いそのかみ)神宮」です!
森の中を抜けると明るい広場となっており、左側には石上神宮の社殿が建っています!
石垣の上に建つ朱塗りの廻廊がとっても鮮やかですね!
廻廊にはとっても立派な楼門が建っています!
この楼門は文保二年(1318年)に建てられた貴重な建物で、国の重要文化財に指定されています!
楼門をくぐると奥に拝殿が建っています。
こちらの拝殿は鎌倉時代初期に建てられたもので、なんと国宝に指定されています!
伝承では永保元年(1081年)に白河天皇が宮中の神嘉殿という建物を寄進したと伝えられていますが、実際にはもっと時代が下るようです。
ただ確かに神社建築というより住宅や寺院といった印象を受ける建物ですね!
さて石上神宮について。言うまでもなく1100年前に編さんされた法典『延喜式』に載っている式内社です!
そして御祭神として「布都御魂(ふつのみたま)大神」「布留御魂(ふるのみたま)大神」「布都斯魂(ふつしみたま)大神」というよく似た名前の三柱の神様を祀っています。
この三柱はいずれも神剣や神宝に宿る神霊だとされていて、中でも「布都御魂大神」は『古事記』にも登場します。
この「布都御魂大神」は神武天皇が熊野の山中を通っているときにピンチを救ってくれた剣で、石上神宮に祀られていることも『古事記』に記されているのです!
そしてこの地は古墳時代以降、「物部(もののべ)氏」というとっても大きな勢力を築いた人たちが拠点を置いていました。
何を隠そう、ここ石上神宮はこの物部氏が神官として祭祀してきた神社なのです!
物部氏は強大な軍事力を持っており、大量の兵器も所有していた人たちです。
石上神宮は物部氏の武器を備蓄する武器庫としての役割も持っていたと考えられており、物部氏の軍事力を支えていたこととでしょう。
また物部氏は祭祀に長けた人々でもあったため、神武天皇に関わる重要な霊剣を託されて厳重に祀ってきたのかもしれませんね!
そして実際に七支刀という変わった形の剣が伝えられており、さらに禁足地とされている本殿域からも明治年間に剣が出土しています!
石上神宮については詳しく取り上げるととっても長くなるので、さらに詳細を知りたい方は姉妹サイト『神社巡遊録』の石上神宮の記事をご覧くださいね!
ただ一つ。実はこの地は物部氏が拠点を置く前にまた別の人たちがいたと考えられ、石上神宮もどうやら最初はその人たちが神官として祀っていたのではとも疑われます。
このことについては後でまた出てくるので頭の隅に置いておいてくださいね!
石上神宮にはいくつかの境内社があるのですが、ここではその一つ「出雲建雄(いずもたけお)神社」を紹介したいと思います!
こちらの神社も『延喜式』に載っている式内社です!(ただし諸説あり)
伝承では神官が夢のお告げに従って川の上流へ行ってみると八つの霊石があり、そこで神様から託宣があったので社殿を建ててを祀ったと伝えられています。
出雲建雄神社で注目したいのは、社殿の前に建っているこの拝殿!
実はこれは、かつて近くにあった内山永久寺というお寺の鎮守社(住吉神社)にあったもの。
この拝殿は正安二年(1300年)に建てられたもので、極めて貴重な建物として国宝に指定されています!
この拝殿のように中央に通路があるタイプの拝殿を「割拝殿(わりはいでん)」というのですが、こちらの割拝殿は大阪府堺市の桜井神社にあるもの(こちらも国宝)と並んで国内最古級のもの!
見た目はなんだか地味ではあるものの、実はとっても貴重な建物なのです!
石上神宮にはたくさんのニワトリがいました!
昭和末ころから奉納されたもので、今ではすっかり石上神宮の人気者になっています!
石上神宮の地図
新緑との対比が美しい「桃尾の滝」へ
石上神宮から布留川の上流側へと歩いていきます。
細い谷が続いていて、人家もまばらな光景となっていますね!
しばらく歩いていくと道が分かれたところに「桃尾の滝」と書かれた看板が建っているのでここを曲がります。
この道を進んでいくと森の中へ入り、さらに石段を上っていくと鳥居が建っています!
鳥居をくぐって石段を上っていくと神社が鎮座しています!
この神社の名前は「石上神社」!石上神宮と似ていますね!
一説には石上神宮の元社がここだという伝承もあるようですよ!
石上神社に参拝してさらに奥へと進んでいきます。
するとこのような空間が!
美しい新緑に包まれた中に注連縄が掛かっていて、辺りには水の轟音が響き渡っています!
この空間の奥の方へ行ってみるとこのような滝があります!
この滝は「桃尾(ももお)の滝」と呼ばれています。高さ約23mで、大和川水系で最大級の滝となっています!
辺りで鳴り響いていた水音の正体はこの滝だったのですね!
滝の周囲にはこのように多くの石仏が安置されています。
かつては和銅年間(708年~715年)に義淵(ぎえん)という僧によって開かれた「龍福寺」というお寺がここにありました。
中世には真言密教の行場として大いに栄えたようですが、明治に入って廃絶してしまいました。
ここにある多くの石仏はきっとその名残なのでしょう。
桃尾の滝の地図
和珥氏が祀ってきた「和爾下神社」へ
石上神宮へ戻り、今度は北西へと歩いていきます。
ちょっと遠いですが、櫟本町というところに次の目的地「和爾下(わにした)神社」が鎮座しています!
境内に入るとこのようにとってもうっそうとした森!
昼間でも暗い境内となっています!
森の中の参道を進んでいくと石段の上に開けた広場があり、ここに社殿が建っています!
まずはお参りしちゃいましょう!
拝殿の後ろに建っている本殿はあまりよく見えませんが、桃山時代の貴重な建築で国指定重要文化財となっています!
さて和爾下神社について。御祭神は「素盞鳴命(すさのおのみこと)」「大己貴命(おおなむちのみこと)」「櫛稲田姫命(くしなだひめのみこと)」。
こちらの神社も『延喜式』に記されている式内社です。
そしてこちらの神社は古代氏族である「和珥(わに)氏」という人々が祀ってきたと考えられています!
和珥氏は孝昭天皇の皇子である天足彦国押人命を祖とする氏族。ただしその出自は他にも諸説あったりします。
こちらの神社の社殿は古墳(和爾下神社古墳)の上に建っていて、和珥氏の長が葬られていると考えられています。
古墳時代からこの地が和珥氏にとって大切な場所だったのかもしれませんね!
ちなみに先ほど石上神宮で「この地は物部氏が拠点を置く前にまた別の人たちがいた」と書いていたのを覚えていますでしょうか?
実は物部氏が来る前は和珥氏が石上神宮の地にもいたと考えられているのです!
実は和珥氏の一族が石上神宮を祀っていたことが『日本書紀』や『新撰姓氏録』といった古い記録にも見えています。
物部氏が来る前は、この辺り一帯は和珥氏がとっても大きな勢力を築いていたことがうかがえますね!
和珥氏は時代が進むと多くの氏族に分かれていきます。
具体的には春日臣・大宅臣・粟田臣・小野臣・柿本臣・壱比韋臣など16もの氏族に分かれることになるのです!
この中でも柿本氏は後に歌人としてとっても有名な柿本人麻呂が出ています。
こちら和爾下神社は特に柿本氏と関係が深かったようで、境内にはかつて神宮寺としてズバリ「柿本寺」というお寺がありました!
明治の神仏分離で残念ながら廃絶してしまいましたが、今もその跡地が残っています。
和爾下神社(天理市櫟本町)の地図
アイスが名物の「中西ピーナッツ」さんへ
和爾下神社に隣接して面白いお店があるのでちょっと寄ってみましょう!
その名は「中西ピーナッツ」さん!
その名の通り主にピーナッツを扱うお店で、いろんな種類のナッツ類や加工品が取りそろえられています!
中西ピーナッツさんは「メープル&ナッツアイス」が名物となっています!
ナッツとメープルシロップを練り込んだアイスで、口に入れた瞬間にメープルの甘さとナッツの風味が広がりとっても美味!
和爾下神社を訪れたときは是非ともこちらにも足を運んでみてください!
店の前にはピーナッツのキャラクターが!
一緒に写真を撮ることもできちゃいますよ!
「中西ピーナッツ」さんの地図
もう一つの「和爾下神社」へ
今回は「天理市の旅」というテーマですが、最後は市の境界を越えて大和郡山市へと入っちゃいます。
さっきの和爾下神社から西へ歩いていくと、大和郡山市横田町というところにもう一つ、同じ名前の「和爾下神社」があります!
丘陵上にあった天理市の和爾下神社に対してこちら大和郡山市の和爾下神社は平野部にあります。
こちらは明るい境内で雰囲気が全く違いますね!
それではお参りしましょう。
割拝殿をくぐるとこのような社殿が中央に建っています!
さて、こちらの和爾下神社の御祭神は「素盞嗚命(すさのおのみこと)」「大己貴命(おおなむちのみこと)」「櫛稲田姫命(くしなだひめのみこと)」「横田物部命(よこたもののべのみこと)」。
さきほど天理市の和爾下神社では式内社であると書きましたが、実は『延喜式』には和爾下神社の神様は二柱いらっしゃる旨が記されています。
そしてこの二柱の内、天理市の和爾下神社とこちら大和郡山市の和爾下神社で一柱ずつ祀っているという説があるのです!
つまり天理市の和爾下神社と大和郡山市の和爾下神社で一つの神社だった、ということもできるかもしれません!
ただこの点は諸説あり、どちらかがどちらかへ神様の分霊を遷したとする説もある点に注意。
天理市の和爾下神社では和珥氏の中の柿本氏という一族と関係が深かったのに対し、こちら大和郡山市の和爾下神社では和珥氏の中の壱比韋(いちいい)氏という一族と関係が深かったとも言われています。
その一方で、こちら大和郡山市の和爾下神社の伝承では物部氏の一族である横田物部氏がこの地に居住して祀ったのがこの神社だとも言われています!それを証するように御祭神として「横田物部命」が加わっていますね!
石上神宮では物部氏の前に和珥氏が祀っていたかも、という話をしましたが、大和郡山市の和爾下神社でもまた和珥氏の神社に物部氏が関わっていることになるのかもしれません!
この辺りから石上神宮にかけては和珥氏と物部氏が複雑に勢力を広げていったのではと想像が膨らみますね!
和爾下神社(大和郡山市)の地図
これで今回の目的地は全て訪れました!
さらに西へと歩いて帰りは近鉄電車の筒井駅から!
まとめ
今回はこのように天理市(と一部大和郡山市)を歩き回ってみました!
今では天理教の人たちが集まる一大宗教都市ですが、古くは力を持った古代氏族がいて本当に歴史のあるところだったことがよくわかりました!
今回はほとんど訪れませんでしたが、天理市には多くの巨大な古墳があって、これらも物部氏や和珥氏が関わっていたと言われています!
これらもあわせて巡ってみると天理市の古代の様子がより深く理解できるようになるかもしれませんね!
天理市は天理教だけじゃない、まさに古くからの信仰が今にも受け継がれているという意味でも「宗教都市」だということがよくわかる旅でした!