今回の記事は過去編!以前に京都府宇治市へ行ったときのお話です!
宇治といえばお茶が有名ですね。
そして平等院といったお寺や古い建築を残す神社など、とっても歴史のあるところでもあります。
今回はいつもと違って多くの人がよく知っているところですが、個人的にも印象深いところなので記事にしてみちゃいます!
目次
京都府宇治市へ!
まずは京阪電車の宇治駅へ
まずは京阪電車に乗って宇治駅へ。
東京などから新幹線に乗って宇治へ行く場合はJRを使う人が多いですが、大阪からだと京阪電車が圧倒的に便利!
中書島駅で特急から宇治行きの電車に乗り換えます。
京阪電車の宇治駅はこんな感じ。
JRの線路をまたぐため一旦地下へもぐってから再び昇る構造になっています!
ちなみにJRの宇治駅は宇治川を渡って向こう側、ここから15分ほど歩いたところにあります。
京阪電車の宇治駅とJRの宇治駅、どちらがいいかは経路によりますが、個人的には京阪電車の宇治駅から出発する方が好きですね。
京阪電車からだと宇治川に架かる宇治橋を渡ることになり、この景色がとても美しいからです!
琵琶湖から流れ出た水が瀬田川・宇治川と名前を変え、山を越えてここへ流れてきています。
大きな川が山から平地へと注ぎ込むこの景観こそが宇治らしさを醸し出しているように思えるのです!
ちなみに宇治橋については最後の方でまた詳しく取り上げるので覚えておいてくださいね!
宇治橋を渡ったところには紫式部の像が佇んでいます。
宇治は『源氏物語』の終盤の舞台になっており、恐らく紫式部自身も足を運んだことと思います。
平安時代の頃からここ宇治は創作意欲をかきたてる風情ある地だったのでしょう。
国風文化の集大成、「平等院」へ!
宇治橋を渡ったら、宇治ではまず外せない超重要スポットへと向かいます。
飲食店や土産物の並ぶ商店街の先にその入口があります!
それはこちら、「平等院」です!その主要な建物である「鳳凰堂」は10円玉のデザインとしても有名ですね!
平安時代後期の永承七年(1052年)に藤原頼通が建てたお寺がこちら平等院。歴史の教科書にも必ず載っていますね!
当時の貴族の間では仏教の教えが廃れてしまうという末法思想が広まり、現世にあまり希望を持てないようになっていました。
そのため現世よりも来世での救済を望むようになり、死後は極楽浄土へ往生できることを願ってその主である阿弥陀如来を信仰することになります。
こうした背景を元に阿弥陀如来を本尊とする仏堂として建てられたのが平等院の鳳凰堂なのです!
鳳凰堂の建物は建立された当時のもので国宝に指定されています!
当時は単に「阿弥陀堂」とか「御堂」とか呼ばれていましたが、屋根上に鳳凰の像を置くことや、上から見た様子がまさに左右に翼を広げた鳳凰のような形であることからいつしか鳳凰堂と呼ばれるようになったようです。
そして本尊である阿弥陀如来坐像ももちろん国宝!定朝という有名な仏師が作ったもので、優美で温和な顔立ちやゆったりとした衣文など、まさに平安時代らしい仏像です!
遣唐使が廃止されて以来、平安時代の中期から後期にかけて日本の風土に合った文化が発展しました。これは「国風文化」と呼ばれています。
平等院の建てられた時代はこうした国風文化の最盛期!日本的な美を表現した鳳凰堂や阿弥陀如来像はまさに国風文化の集大成と言えるのです!
鳳凰堂の前の池には多くのスイレンの花が咲いていました!
写真の上の方にはウシガエルも写っていますね!
平等院の地図
かつて平等院の鎮守だった「縣神社」へ
ちょっと道を戻ります。
宇治橋を渡った先、平等院へ行く道の隣に大きな鳥居が建っていてとってもよく目立ちます。
多分、宇治を訪れる多くの人が気になりつつもスルーしているのではないでしょうか。
さっきの鳥居をくぐって道をまっすぐ進むと左側に「縣(あがた)神社」が鎮座しています!
何を隠そう、さっきの鳥居はこちらの神社のものだったのです!
鳥居をくぐってお参りしましょう!
もちろん拝殿の後ろに本殿が建っているのですが、構造上外からは見ることができません。
さてこちら縣神社について、御祭神は「木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)」ですが、その創建ははっきりしていません。
社名の「縣(県 / あがた)」というのはとっても古い行政区画で、律令制に基づく国郡里制が施行される以前にあったものです。
その実態は明らかでないものの、朝廷の直轄領とされ、後の郡の前身となるものも多くありました。
この縣ごとにその地の支配や管理を任された者(一族)がおり、これは縣主(あがたぬし)と呼ばれました。
ここ宇治にはかつて栗隈縣(くりくまのあがた)があったと推定され、その縣主が神様を祀ったのがここ縣神社だったのかもしれません。
後に平等院が創建されてからはその鎮守となり、藤原氏の崇敬も受けて縣神社も隆盛したと伝えられています。
縣神社では毎年6月5日から6日にかけて「縣祭り」というお祭りが行われます。
そこでは深夜に梵天(ぼんてん)と呼ばれる大きな幣を立てた神輿が担がれて勇壮に走り回るのです!
境内にはこの梵天のレプリカ(?)が置かれていました!
ただ、このお祭りは神輿の担ぎ手である奉賛会と神社との間で対立があるといい、両者が分裂して行われるなどなかなか複雑な実情となっているようです。
縣神社の地図
宇治のお茶を楽しもう!
抹茶の名店、「中村藤吉」さんへ
再び鳥居のある宇治橋のそばまで戻って、今度は西側のJR宇治駅の方へと歩いていきます。
しばらく歩いていくととても貫禄のある大きなお屋敷が!
こちらは多くのスイーツも扱う抹茶の名店、「中村藤吉」さんの本店です!
のれんをくぐって奥へ進むととっても風情のある庭園が出迎えてくれます!
大人気店でだいたい待ち時間が発生しますが、タッチパネルで予約ができますよ!
店内は和モダンな感じでとってもオシャレ!
そして今回は中村藤吉さんの看板メニューである「まるとパフェ」をいただきました!
ひんやり冷やした竹筒の中に抹茶アイスや抹茶ゼリーなどが盛りだくさん!
とっても美味しい抹茶スイーツです!
やはり宇治といえば何と言ってもお茶!抹茶スイーツを味わってこその宇治と言えるものですね!
「中村藤吉 本店」の地図
お茶の歴史を学べる「宇治・上林記念館」へ
中村藤吉本店から道を戻る途中に「上林茶舗(かんばやしちゃほ)」さんがあります。
こちらはお茶の葉を販売するお店ですが、「宇治・上林記念館」という資料館も併設しており、こちらで宇治のお茶に関する歴史や製茶の方法などを学ぶことができます。
宇治の気候がお茶の栽培に適していたといい、江戸時代には幕府に宇治のお茶を献上するための「宇治採茶使」という行列も行われたとか。
こうしたことを詳しく紹介しているので、宇治を訪れる際は是非とも見学してみてくださいね!
きっと宇治に関する理解がより深まることと思いますよ!
宇治・上林記念館の地図
日本最古の神社建築「宇治上神社」へ
再び宇治橋を渡って今度は宇治川の右岸側へ!
さわらびの道という風情ある道を進んでいくと、うっそうとした森に鮮やかな朱色の鳥居が見えてきます!
ここが次の目的地「宇治上(うじがみ)神社」です!
鳥居をくぐって木のトンネルを進んでいくと石橋と神門があり、ここが境内の入口です!
神門をくぐると宇治上神社の拝殿が建っています!
この建物は鎌倉時代前期に建てられたとっても古くて貴重なもので、国宝に指定されています!
神社建築というより住宅建築に近く、寝殿造の遺構であるとも言われています!
そして拝殿の後ろの小高いところには本殿が建っています。この本殿はとっても有名ですね!
そう、日本最古の神社建築がこの宇治上神社本殿なのです!
年輪測定法から1060年頃の建立であると考えられていて、平安時代にまで遡る現存唯一の神社建築です!
もちろんめちゃくちゃ貴重なもので国宝に指定されています!
とっても古くて貴重なだけでなくその構造も変わっています。覆屋の中に三棟の社殿があるのですが、社殿と覆屋がくっついて一体となっている点は他にあまり類例がありません!
さて宇治上神社について。御祭神は「菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)」。
この神様は応神天皇の皇子にあたる人物です。
菟道稚郎子は、応神天皇の崩御の際に異母兄である大鷦鷯尊(おおさざきのみこと / 後の仁徳天皇)と皇位を譲り合い、三年間も空位が続いたことを憂えて菟道稚郎子が自害に及び、大鷦鷯尊を皇位に就かせたとされています。
菟道稚郎子はその名に「うじ」と付くように宇治と関連が深い人物。『日本書紀』や『山城国風土記』逸文といった古い記録には宇治に離宮を営んでそこに住んでいた様子が記されています。
その離宮はここ宇治上神社や後述の宇治神社だったとも言われ、そのため江戸時代以前には両社は「宇治離宮明神」とも呼ばれていました。
これに因んで菟道稚郎子が神様として祀られるようになったのでしょう。
ただその創建についてははっきりせず、或いは別の氏族がその祖神を祀っていたのが、後に菟道稚郎子と結びついたとする説もあります!
本殿の隣に境内社として「春日社」が鎮座しています。
こちらの建物は鎌倉時代後期に建てられたもので、国の重要文化財に指定されています!
こちらもとっても貴重な建物なのですが、本殿があまりにもすごすぎるのでちょっと霞んでしまいますね。
宇治上神社の地図
宇治上神社背後の「大吉山(仏徳山)」へ
宇治上神社の背後には「大吉山」もしくは「仏徳山」と呼ばれる小さな山がそびえています。
境内の脇の道路から登山道が伸びているので、せっかくなので登ってみましょう!
大吉山(仏徳山)は標高131mの低山なので10分ほどで登ることができますよ。
山頂の手前側には展望台があります。そこからは宇治の様子はもちろん、遥か遠くの大阪方面まで見渡すことができちゃいます!
展望台から平等院を見るとこんな感じ。意外と住宅地に囲まれていますね!
大吉山(仏徳山)展望台の地図
宇治を代表するもう一つの神社「宇治神社」へ
宇治上神社のすぐ近くにもう一つの神社が鎮座しています!その名も「宇治神社」!
神社の名前もよく似ていますね!
鳥居をくぐって参道を進むと拝殿が建っています。
こちらは舞殿のような形式の拝殿で、京都府でよく見る標準的なタイプです!
拝殿には「桐原殿」と右書きで記された扁額が掲げられています。これは恐らく、『山城国風土記』逸文で菟道稚郎子が住んでいた離宮の名前を「桐原日桁宮」と記していることに因んでいるものでしょう。
拝殿の後ろには朱塗りの鳥居が建っており、そこから石段を上ったところに本殿が建っています!
本殿前にはこれまた朱塗りの拝所が設けられていて、鳥居とともにとっても鮮やかですね!
本殿は鎌倉時代初期に建立されたこれまたとっても古い建物で、国の重要文化財に指定されています!
宇治上神社には古さでは及ばないものの、こちらも貴重な建物なのです!
さて宇治神社について。こちらも御祭神は宇治上神社と同じく「菟道稚郎子命」です。
拝殿に「桐原殿」の扁額があったように宇治上神社と同じく菟道稚郎子の離宮跡とされています。
上述したように江戸時代以前は宇治神社と宇治上神社の両社はいずれも「宇治離宮明神」と呼ばれ、両社で一体的な神社でもあったようです。
一方で約1100年前の法典『延喜式』には「宇治神社」の名前が見え、二柱の神様を祀っていた旨が記されています。
これは今の宇治神社と宇治上神社それぞれの神様であるとも、どちらか片方であるとも言われています。
つまり宇治神社と宇治上神社のどちらか、もしくは両方が式内社と考えられるのです!
古い建物が残っていることに加えて、記録の上でも古いことが確かめられるわけですね!
ただ、式内社の神様として人物が祀られることは、無いことはないのですがあまり多くはありません。
そのため本来は菟道稚郎子でなく別の神様を祀っていた可能性も考えられます。
この辺りの詳しい解説は姉妹サイト『神社巡遊録』の宇治神社の記事もぜひご覧くださいね!
宇治神社では境内のあちこちに兎の像や置物が置かれています。
伝承では、菟道稚郎子が河内国(大阪府東部)からここへ向かう途中に道を迷っていたところ、一羽の兎が現れて振り返りながら先導したと伝えられています。
このことに因んで宇治神社では「みかえりうさぎ」と呼ばれて兎が神使となっているのです!
宇治神社の地図
宇治橋の守り寺「放生院」へ
さて宇治橋へと戻ってきました!
ここで改めて宇治橋について改めて詳しく紹介しましょう!
「宇治橋」は飛鳥時代の大化二年(646年)に初めて架けられたというとっても歴史のある橋で、日本三古橋の一つです!
ちなみに日本三古橋の残りの二つは滋賀県大津市にある「瀬田の唐橋」と、京都府と大阪府の間にかつてあったという「山崎橋」(現存せず)。そのいずれもが琵琶湖から流れ出る淀川水系にあります(ありました)!
今の宇治橋は平成八年(1996年)に架け換えられたもので、バスもひっきりなしに通る現代的な橋ながら、その欄干は檜造りとなっていてとっても趣あるものとなっています!
宇治橋の右岸側には古くこの宇治橋を管理していたというお寺があります。
その名は「放生院(ほうじょういん)」!正式には「雨宝山常光寺」といいます。
また別の名として「橋寺(はしでら)」とも呼ばれていて、ここからも橋と関係の深いことがうかがえますね!
ちなみにここを訪れたのはまた違う日でしたがせっかくなのでここで紹介しちゃいます!
山門をくぐって境内を進むと本堂が建っています。
お寺の本堂というより民家のような建物ですね!
お寺の伝承では推古天皇十二年(604年)に秦河勝(はたのかわかつ)という人物が聖徳太子の命を受けて宇治橋を架けたときに創建されたのがここだと伝えられています。
ただ上述のように記録上では宇治橋が架けられたのは大化二年(646年)のことなので、放生院が創建されたのはこの時期であるとの説もあります。
いずれにしても宇治橋の維持や管理のために建てられたお寺だったようですね!
後世には衰微したものの、鎌倉時代に叡尊(えいそん)という僧が再興して、それ以来また宇治橋の管理を担うようになったといい、それ以降「橋寺」と呼ばれるようになったと言われています!
そしてここ放生院には「宇治橋断碑(うじばしだんぴ)」と呼ばれる石碑があり、これは何と日本最古の石碑であると考えられているのです!
ただし古くからの石碑は上側の1/3ほど。江戸時代の寛政三年(1791年)に放生院の境内からこの上側1/3が発見されたというのです!
下側2/3は今に至るまで発見されていないものの、奇跡的に『帝王編年記』という記録にその内容と同一の文が収録されているため、その全文が明らかになっています!
このお陰で下側2/3の復元が可能だったわけですね!
その内容は、大化二年に道登という僧が宇治橋を架けた功績をたたえたもの。
この石碑が作られた年代が大化二年とは限らないものの、その書体などや内容から大化二年からそう離れない時代と推測されています!
宇治橋を管理していたお寺から宇治橋に関する古碑が発見されたこと、そしてその全文が明らかになっていること、この二つの奇跡が重なったものがこの宇治橋断碑と言えることでしょう!
放生院の地図
宇治橋の守護神「橋姫神社」へ
さて日付を元に戻しまして。
宇治橋を守るとされる存在は実はもう一つ存在します。それは「橋姫神社」!
宇治橋を渡ってさっきの縣神社の鳥居から縣神社へ行く途中にあります。
鳥居をくぐると右側に大きな屋根があり、その中に二つの祠が建っています。
この内の左側が「橋姫社」、右側が「住吉社」!
橋姫神社は「瀬織津比咩(せおりつひめ)」という神様を祀っています。
この神様は元々は宇治川の上流の桜谷というところに祀られていたといい、今も上流の瀬田川沿いには同神を祀る「佐久奈度神社」が鎮座しています。
そして大化二年(646年)に宇治橋が架けられた際に、その守護神として祀られたのがこの神様だったのです!
この神様は「橋姫」と呼ばれるようになり、平安時代の『古今和歌集』には次の歌が収録されています!
『古今和歌集』
さむしろに衣かたしき今宵もや 我をまつらん宇治の橋姫
この歌の意味は「むしろに自分の衣だけを敷いて今宵も私を待っているのだろうか、宇治の橋姫は」といったもの。
(宇治に住んでいる)恋人を宇治の橋姫に例えているのであり、ちょっとした遠距離恋愛的な、一人寂しく待っている恋人を思うロマンチックな歌と言えますね!
このように橋姫は恋人に例えられるような存在で、平安貴族たちの間では美しい女神といった印象を持っていたのでしょう。
一方で橋姫は嫉妬深く恐ろしい存在であるともみなされるようになっていきます。
『平家物語』の異本には次のようなお話が載っています。
『平家物語』(大意)
とある女が嫉妬にとらわれ、「鬼になってあの憎い女を殺したい!」と貴船神社に籠って祈ったところ、宇治川に21日間浸れと神託があった。
女は全身を赤く塗って鉄輪(三つの脚がついた鉄の台)を逆さにして頭に乗せてそれぞれの脚に松明を燃やし、口にも両端に火をつけた松明をくわえ、宇治川へ21日間浸り続けたところ生きながら鬼になった。これが宇治の橋姫である。
橋姫は嫉妬していた女をはじめその縁者や相手の男の親類、そしてやがては誰彼構わず殺していくようになり、京では橋姫を恐れて申の時を過ぎると誰も外出することがなくなってしまった。
(以下略)
この後は橋姫が源綱(みなもとのつな)という人物によって腕を斬られて退散する様子が描かれています。
このように橋姫はとっても恐ろしい存在として描かれるようになってしまうのですね!
しかも元々は生きた人間!嫉妬や復讐といったおぞましい負の感情が人間を橋姫という“鬼”に変えてしまったことがまざまざと表現されています!
後にはこの話を元に『鉄輪』という能の演目にもなり人々に広く知られるようになっていきます。
橋姫神社の神様もこの「橋姫」と同一とみなされ、今も悪縁を断ち斬ってくれる縁切りの神様としても信仰されています。
そして逆に婚礼の行列が神社の前や宇治橋を通るのは神様が嫉妬するためタブーとされているようです!
ところで宇治橋の上流側にはこのように突き出た一画があります。
これは「三の間」と呼ばれていて、橋姫は元々はここに祀られていたのです!
いつしか宇治橋の西詰に祀られるようになり、明治の洪水の後に現在地に遷ったようです。
もう不要なもののはずですが、1996年に新しく架け替えた際にもこうして「三の間」を作っているのは、やはり宇治橋にとって大切なものだという認識が共有されているからなのでしょう!
橋姫神社の地図
宇治は他にも見どころがたくさんありますが今回はここまで。
帰りは京阪特急で楽々です!
まとめ
今回は超有名な観光地。このように誰もが知ってる寺社に寄りつつも、プラスアルファでマイナーなところへも立ち寄ってみました!
宇治はまだまだ紹介しきれていない素晴らしいところがたくさんあります!
そして何と言ってもお茶とスイーツがおいしいですね!
歩いて楽しい、食べておいしい。そんな宇治は日本屈指の名所だと思います!
アイキャッチの元画像はCi-enの記事に公開しているのでこちらも是非見てみてくださいね!