先日、4月30日に兵庫県三木市へ行ってきました!
三木市と一口に言っても範囲が広く、今回はその中でも南部を歩いてきました!
三木市の全域と神戸市の淡河町は江戸時代以前は播磨国の美嚢(みのう)郡と呼ばれていました。
播磨国は奈良時代の各地の伝説や文化などを記した『風土記(播磨国風土記)』が伝わっており、その内容には美嚢郡ももちろん含まれています!
今回はその『播磨国風土記』に記されている伝説の舞台となっているところも訪れちゃいます!楽しみですね!
目次
兵庫県三木市へ!
雰囲気のある修験道の寺「伽耶院」へ
兵庫県三木市は電車が走っているものの、最初の目的地は駅から遠いのでちょっと一工夫。
まず阪神電車で神戸三宮駅まで行き、そこから神姫バスの社(やしろ)行きに乗って「志染(しじみ)小学校前」というバス停で下ります。
ここからだと最初の目的地まで結構近いので便利!
それにしてもこの日の朝はとても寒かったです。三木市は内陸なのでなおさらのこと!
バス停から北へ歩き、高速道路を過ぎたあたりで東へと曲がります。
とてものどかな風景が広がっていますね!
この道を進んでいくと仁王門が建っています!
これが最初の目的地「伽耶院(がやいん)」の山門です!
先ほどの仁王門からしばらく道を進んでいくと左側にまたもや門が建っています!
この門は中門にあたり、実質的にはここが境内の入口となります。
二天堂とも呼ばれ、ここは仁王(金剛力士)でなく四天王の内の持国天と多聞天の像を安置しています!
中門(二天堂)をくぐった先の右側に伽耶院の本堂が建っています。
伝承では慶長十五年(1610年)、解体修理の調査では正保三年(1646年)の建立とされ、貴重な建築として国の重要文化財に指定されています!
内部に安置されている御本尊の毘沙門天像は平安時代末期の作で、こちらも国指定重要文化財!
本堂のさらに右奥には多宝塔が建っています!
多宝塔とは写真のように二層になった仏塔で、上側の層は円形となっているのが大きな特徴。
この多宝塔は正保五年(1648年)に九州の小倉藩主の小笠原忠真が建立したもの。
こちらもやはり貴重な建築として国指定重要文化財となっています!
さて、伽耶院は上述のように毘沙門天を本尊とするお寺で、天台宗系の修験道である「本山修験宗」に属しています。
その縁起は、孝徳天皇の勅願寺として大化元年(645年)に法道(ほうどう)仙人が開いたものといい、当初は「大谿寺(だいけいじ)」と称しました。
この「法道仙人」とはインドから日本へ渡って来たとされる仙人で、兵庫県南部のお寺ではこの仙人が開いたと伝えるところが多くあります。
しかしこの仙人は『日本書紀』などの記録には一切記されておらず、お寺の縁起や伝承にのみ語られている謎多き伝説的な人物なのです!
平安時代以降は大いに隆盛し、中世には修験道の拠点として栄えたようで、それ以来現在に至るまで関西でも著名な修験道のお寺となっています。
ただ羽柴秀吉による三木合戦(後述)で兵火を受け、さらに江戸時代初めには失火があったといい、現在残る建物はそれ以降のものとなっています。
ちなみに伽耶院では入山料が「草ひき10本」となっています。
お金という“モノ”でなく、草ひきという“行為”を入山料にするのは珍しいですね!
伽耶院の境内には神社もあります。
本堂と多宝塔の間には「三坂明神社」が鎮座。伽耶院の鎮守、つまりお寺の守護神として祀られています!
この社殿は正保年間(1645年~1648年)に建立されたもので、これも本堂や多宝塔と共に貴重な建築として国の重要文化財となっています!
三木市ではこのように「みさか」と名乗る神社がたくさんあります。
こうした「みさか神社」についてはまた後ほど詳しく紹介します!
もう一つ、伽耶院の境内の奥に小さな神社があります。
この神社はとても変わっていて、社殿の下にはたくさんの円盤状の石が積まれています!
これ、何だかわかりますか?
実はこれ、石臼なんです!ぐりぐりと回すことで素材を粉末状にするアレです!
そしてこの神社は「臼稲荷」と呼ばれています。
伝承では、昔この地域では田圃に水をためるため古い石臼をつかっていたといい、ある年に干害になった際、権力のある者が水を独り占めしようとしたところ、白衣の老人となった狐が現れて田圃の石臼を全て取り除いて水を均等に分配したと言われています。
村人はこれを恥じ、石臼をここに奉納したそうな。
境内には真っ赤なよだれかけや帽子をまとったお地蔵さんがいっぱい並んでいました。
伽耶院の地図
皇子が隠れたという「志染の石室」へ
道を戻り、志染(しじみ)川を渡って対岸へ。この志染川の流れる一帯は「志染」と呼ばれています。
志染は『播磨国風土記』にも登場する古い地名で、そこでは「志深」と表記されています。
『播磨国風土記』によれば「志深」の由来は、履中天皇がここの井戸で食事をしたときにシジミ貝が弁当箱の縁をよじ登っており、そこで「この貝は阿波国の和那散(わなさ)というところで食べたものだ」と言ったのでそう名付けられたとあります。
ちなみに阿波国の和那散とは現在の徳島県海陽町の辺りで、「和奈佐意富曽(わなさおうそ)神社」という神社も鎮座しています。
志染川を渡ったらちょっとした森の中へと入っていきます。
その入口には例によって害獣除けの扉が設置されているので、ここを開けて通ります。
開けたらちゃんと閉めるのを忘れずに!
この森はちょっとした高台になっており、目的地はこの高台を下っていったところにあります。
この道の奥へと進んでいくと次の目的地「志染の石室」が見えてきました!
断崖の下側に洞窟状の窪みがあり、前日に雨が降ったこともあって断崖には水がポタポタとしたたり落ちています。
ここは『日本書紀』に「縮見山石室」と記されているところで、仁賢天皇(第24代)と顕宗天皇(第23代)の兄弟が即位する前に政変を逃れて身を隠していたとされるところです!
顕宗天皇は「袁奚 or 弘計(をけ)」、仁賢天皇は「意奚 or 億計(おけ)」と称していましたが、政争によって父の市辺押磐皇子(いちのべのおしわのみこ)が大泊瀬皇子(おおはつせのみこ / 後の雄略天皇)に殺された際に難を逃れて丹後半島へ、そしてここへやってきて、丹波小子(たにわのわらわ)と名乗って牛や馬の飼育をすることになりました。
後に清寧天皇の御代となり、宴を行った際に二人は歌に託して身分を明かし、子の無かった清寧天皇は喜んで二人を迎え入れたとされています。
清寧天皇の崩御後はまず弟の顕宗天皇が、その崩御後は兄の仁賢天皇が即位し、特に仁賢天皇の御代は国内がよく治まって平和だったと言われています。
ちなみにこの二人がこの地で身を隠した話は『日本書紀』はもちろん『播磨国風土記』にも記されています!
この志染の石室の窪みには石製の祠が建っています。
最近建てられたもののようですが、御祭神に関する情報は見当たりません。
ここに隠れていた二人の皇子が祀られているのでしょうか?
祠の後ろを覗いてみると水がたまっていました。
この水は「窟屋(いわや)の金水(きんすい)」と呼ばれており、ここに生息しているヒカリモという藻の作用で冬には金色に光るようです。
志染の石室の地図
式内社の有力な候補、御坂の「御坂神社」へ
志染の石室から東へ歩き、再び志染川を渡ったところに次の目的地「御坂神社」が鎮座しています!
さきほど三木市では「みさか」と名乗る神社がたくさんある、と書いていたのを覚えていますか?
こうした「みさか神社」の代表的な神社の一つがここなのです!
まずは鳥居をくぐって参拝しましょう!
約1100年前に編纂(へんさん)された『延喜式』という法典には神社の一覧表があるのですが、そこに播磨国美嚢郡に「御坂神社」が載っています。
つまり三木市内にある「みさか神社」のどれかがこの『延喜式』に載っている「御坂神社」であり、式内社ということになるのです!
そしてこの「御坂神社」の神様(三坂神)については『播磨国風土記』にも載っています。
それによれば、三坂神は志深里に鎮座しており、「八戸掛須御諸命(やとかけすみもろのみこと)」という名前の神様で、大物主命が国を固めた後に三坂の峰に天下った、とあります。
この「八戸掛須御諸命」がどのような神様かははっきりしません。『播磨国風土記』の解釈次第では大物主命(=大国主命)の別名ではないかとも考えられます。
はっきりしているのはこの神様は「志深里」というところに鎮座していたこと。志深里は現在の志染川沿いの一帯と考えられていて、この神社の場所はまさに志深里だったことでしょう。
伝承ではこの神社は江戸時代初めに別の場所から遷ってきたとも伝えられているものの、旧地も恐らくそう遠くない場所と思われます。
とすれば、『延喜式』に見える「御坂神社」は、志染川沿いにあるこの神社、もしくは伽耶院の「三坂大明神」が最有力候補と言えそうです!
この「御坂神社」の拝殿前には能舞台が建っています!
兵庫県南部の神戸と加古川の間(東播磨)にある神社ではこのように能舞台のある神社がとても多くあります。
江戸時代には能などの芸能が民衆の娯楽となって、特に東播磨地域では盛んに能が演じられました。
この能舞台の建物は比較的新しく建て替えられたもので、今ではここで獅子舞や神楽などが奉納されるようです。
御坂神社(御坂)の地図
安福田の「八幡神社」へ
御坂神社から志染川に沿ってひたすら西へと歩いて行きます。
しばらく歩いて行くと「安福田(あぶた)」というところへ至ります。
ここに鎮座する「八幡神社」が次の目的地!
とはいえこちらの神社は由緒がいまいちはっきりしません。
この神社の境内社に「御坂社」があるといい、どちらかというとこちらが本当の目的だったりします。
いくつかの境内社があるのですが、社名を記した札がかすれてよく読めません。消去法で恐らくこちらではないかと思います(違うかも?)。
そう、この「御坂社」も式内社「御坂神社」の候補地の一つなのです!
こちらも志染川沿いにあり、『播磨国風土記』のいう「志深里」だったと思われ、境内社とはいえ比較的有力な候補地です。
もし仮にここが式内社だったなら、最初は御坂神社が鎮座していたものの、後に迎えた八幡神がいつしか主祭神となり、元々の御祭神だった御坂神は境内社となった、ということになるのでしょう。
もちろん、最初から八幡神社として創建されて後に御坂神の分霊を祀った可能性もあります。
何とも言えないところですが、御坂神が祀られている一つとしてお参りしておきましょう!
八幡神社(安福田)の地図
加佐の「三坂神社」へ
安福田からさらに西へと歩いて行くと、いつしか三木市の中心街へと突入し賑やかな町並みとなります。
中心街はひとまずスルーしてさらに進むと再び川を渡ります。この川は「美嚢(みのう)川」といい、この少し上流側で志染川と合流しています。
美嚢川を渡った先の「加佐(かさ)」というところに「三坂神社」が鎮座しています。ここが次の目的地!
鳥居をくぐって境内を進むと社殿が建っており、その手前には幟(のぼり)が立ち並んでいます!
この時は知らなかったのですが、例祭が数日後に控えており、恐らくそのために幟を立てていたのでしょう。
後ろの本殿の様子。
こちらの神社の建物は平成二十三年(2011年)に改築したもので、今でも真新しさが伝わってきます!
こちらの神社の御祭神は「天照皇大神(あまてらすおおみかみ)」「息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)」「豊受大神(とようけおおかみ)」「天児屋根命(あめのこやねのみこと)」「応神天皇」「菅原道真」「大歳御祖神(おおとしみおやのかみ)」「坤八幡神」の八神。
こちらの神社の由緒について、次のような伝承があります。
昔、神功皇后がこの地に立ち寄ったとき、にわか雨で衣が濡れてしまったところ、竹の皮の大きな笠を奉納した者がおり、「笠人」と名付けられたという。後に「笠人」が徳を称えて神功皇后をはじめ諸々の神を祀ったのがこの神社である、と。
神功皇后は瀬戸内海沿いの各地で神社の由緒として伝説的に組み込まれる例が多く見られ、こちらもその一例です。
そしてこの伝承はここの地名「加佐」の語源を語るものともなっています。
そしてここも例によって式内社「御坂神社」の候補地ともなっています!
ただ上述のようにここは志染川沿いではないため、ここが『播磨国風土記』のいう「志深里」だったかは微妙なところ。
御祭神にも『播磨国風土記』に見える「八戸掛須御諸命」を祀っておらず、式内社であるとはあまり強く主張していないのでしょう。
三坂神社(加佐)の地図
三木市の中心的な神社「大宮八幡宮」へ
再び美嚢川を渡って三木市の中心街へ。神戸電鉄の線路の南側は昔からの市街地となっています。
この旧市街にはアーケード付きの風情ある商店街があって「ナメラ商店街」と呼ばれています!
この三木市の旧市街にはここと有馬温泉とを結ぶ「湯の山街道」と呼ばれる古い街道が通っています。
街道沿いにはこのように若干ながら古い建物も!
旧市街の南端あたりから東へと曲がると次の目的地「大宮八幡宮」があります!
見ての通り台地の上にあり、長い石段が続いています!
石段の上に到達するととっても広い境内!
三木市の市街地に程近いところにあるだけあってとっても立派な神社です!
まず手水舎へ向かうと、手水鉢にはかわいらしい鳩の像がありました!
一般的に八幡宮は鳩が神の使いとされており、こちらの神社も八幡宮なので鳩の像があるのです!
それでは参拝しましょう。石垣の上にとても大きな拝殿が建っています!
平成六年(1994年)に拝殿を新しく建て替えたとのこと。ちなみに古い拝殿も境内の隅に保存されています!
拝殿後方に建つ本殿もとても立派なもので、慶長八年(1603年)に建立されたものだそうです!
御祭神は「応神天皇」を中心に九柱もの神様を祀っていて、このため江戸時代以前は「九社八幡宮」とも呼ばれていたようです。
こちらの神社の由緒について、創建ははっきりしないものの、古くから山上に磐境(いわさか / 神を祀るところ)があったといい、天永二年(1111年)に今の地に社殿を建てたと言われています。
中世に別所氏がこの地の守護となるとこちらの神社を氏神として厚く崇敬したといい、羽柴秀吉による三木合戦で別所氏の滅亡と共に焼失したもののその後再建されたようです。
本殿のかたわらには「祝田(はふりた)社」という小さな境内社があります。
とっても地味な神社ですが、実はこちら、とっても重要なんです!
というのもこの「祝田社」、『播磨国風土記』に載ってるとっても古い神様なんです!
それによれば、祝田社の神様は高野里に鎮座しており、その神様の名は「玉帯志彦大稲男(たまたらしひこおおいなお)」「玉帯志姫大稲女(たまたらしひめおおいなめ)」という、とあります。
この「玉帯志彦大稲男」「玉帯志姫大稲女」という神様は『古事記』『日本書紀』などに登場せずはっきりしませんが、その名からして稲作に関係するものと思われます。
美嚢川沿いに田畑が開かれて、その豊作を祈って祀られたのが「祝田社」だったのかもしれませんね!
ただ、どういうわけかその後の『延喜式』には載っておらず、式内社ではありません。
とはいえこの『播磨国風土記』に載っている神社がこちらの神社の始めであると言え、今でも祝田社は「本宮(もとみや)」とされているようです!
大宮八幡宮の地図
三木合戦の舞台、三木城跡へ
道を少し戻ります。
ナメラ商店街の入口にめちゃくちゃデカい看板があり、三木合戦の地である三木城を盛大にアピールしています!
「三木合戦」とは織田信長の命令で羽柴秀吉が三木城の別所氏を攻めた戦いのこと。
別所氏の当主である別所長治は当初は織田氏に従っていたものの、離反して敵方の毛利氏と通じ、三木城に籠城することになります。
そこで羽柴秀吉は兵糧攻めを行い、別所氏は長らく抵抗したもののついには三木城内は「三木の干殺し」と呼ばれるほど壮絶な飢餓状態となり、別所氏の一族が切腹することで二年近くに及んだ三木合戦は終了しました。
看板にある通り三木城跡は台地の上にあります。
いくつかの経路があり、今回はナメラ商店街の途中にある稲荷神社入口から登っていきましょう!
石段を上っていくと「上の丸稲荷神社」が鎮座しています。まずはお参りしていきましょう!
この上の丸稲荷神社は別所長治が京都の伏見稲荷大社の分霊を迎えて創建したものと言われ、三木合戦の後に羽柴秀吉が再興したと伝えられています。
そしてこちらの神社の建っている辺り一帯が三木城の本丸跡となっています!
本丸跡は公園として整備されており、三木城の城主だった別所長治の像も建っています。
本丸跡から西側の様子を眺めた様子。高台なのでよく見渡すことができますね!
目の前には美嚢川が流れ、神戸電鉄の線路も通っています。
そしてこの台地と美嚢川の間の狭いところに湯の山街道が通り、ナメラ商店街などのある旧市街となっているのです!
三木城跡の地図
帰路へ
行きはバスを利用しましたが、帰りは電車を使うことにします。
三木城跡のすぐ下に神戸電鉄の三木上の丸駅があるのでここから帰ります!
神戸電鉄で終点の新開地駅まで乗り、そこから阪神電車で梅田へ!
まとめ
今回はこのように『播磨国風土記』を時おり参照しつつ兵庫県三木市をブラブラ歩く旅でした!
『播磨国風土記』は奈良時代に書かれたものなのでとっても古いのはもちろんのこと、他にも中世に修験道のお寺として栄えた伽耶院や、戦国時代の三木合戦など、色んな時代の歴史を体感できる旅でした!
兵庫県三木市はそれだけ歴史が詰まっているということですね!
ちなみに式内社「御坂神社」の候補地は今回訪れた神社の他にもいくつかあります。
これらを訪れるためにいつかまた三木市を訪れないといけませんね!