先日、5/29に滋賀県高島市に行ってきました!
高島市は琵琶湖の西側、いわゆる湖西地域を範囲とする広い市です。
今回はこの高島市の南東部を巡ってみることにしました!
今回は地味な神社が多いものの、深い歴史と琵琶湖の美しさを感じられる旅となっています!
どんなところなのか楽しみですね!
目次
滋賀県高島市へ!
まずは安曇川駅へ
今回乗るのは琵琶湖の西側に沿って走る湖西線。福井県に行くときにいつも乗ってる路線ですね!
電車もいつもと同じ緑色のやつでした!
(※追記:この緑色の電車は2023年春に引退したそうです。このときが最後の乗車となってしまいました。)
今回は終点の少し手前、安曇川駅で下りました!
安曇川(あどがわ)って難しい読み方の駅名ですね!
安曇川とはこの近くを流れる川の名前。この辺りも平成の大合併で高島市が成立する以前は、この川に因み安曇川町という名前の自治体でした。
そして安曇川の名前は古い時代に安曇(あずみ)氏という氏族がこの地に住んだことに因むと言われています!
安曇氏は福岡県福岡市の志賀島を拠点としていた人々で、優れた航海や漁の技術を持っていたといい、海を舞台に活躍していた氏族です!
そんな人々が、湖があるとはいえ内陸であるこの地に移り住んだのはちょっと不思議ですね。
ただ、安曇川の地名こそ残っているものの、高島市にはあまり安曇氏の痕跡や伝承は残っていません。
その代わり、高島市にはある人物の伝承がとても根強く残っています!
継体天皇の「胞衣塚」へ
安曇川駅から南へと歩いて行くと、田圃の中に何やらちょっとした土盛があるのが見えます。
この土盛は「胞衣塚(えなつか)」と呼ばれています。
胞衣とは生まれたばかりの赤ちゃんを包む膜や胎盤などのこと。
この胞衣塚はとある人物の胞衣を埋めたという伝承があるのですが、その人物とはズバリ「継体天皇」です!
そう、#004で訪れた福井県越前市も継体天皇(=男大迹王)ゆかりの地でしたね!
福井県越前市に住んでいたという男大迹王は、実はこの辺りの出身だと言われているのです!
『日本書紀』によれば、男大迹王は近江国高嶋郷三尾野というところ、つまりこの辺りで生まれたとあり、父が亡くなったために母の故郷である越前国へ向かい、その地を統治したことが記されています。
その後に武烈天皇が跡継ぎを定めずに崩御したため、越前に住んでいた男大迹王が迎えられて継体天皇として即位したのです!
ただ、『古事記』では越前でなく近江から迎えたとあるため、男大迹王は越前でなく引き続きここ近江を拠点としていたとする説もあるようです。
胞衣塚の地図
「志呂志神社」へ
胞衣塚から引き続き南へと歩いていきます。
田圃はすっかり田植えが終わっていて水面が山を映していました!
川を渡ると鴨(かも)という地名のところがあり、ここに次の目的地「志呂志(しろし)神社」が鎮座しています!
さっそく鳥居をくぐって参拝しましょう!
手前側に拝殿、奥に本殿が建っていますね。拝殿が舞殿のような建物になっているのは京都府から滋賀県にかけての神社の特徴です!
志呂志神社の御祭神は「瓊々杵尊(ににぎのみこと)」「玉依姫命(たまよりひめのみこと)」の二柱ですが諸説あるようです。
この神社は1100年ほど前の法典『延喜式』に載っている神社、つまりおなじみ式内社です!
ここは昔は「天皇社」とも呼ばれていて、天下をしろしめす(統治する)天皇の祖である瓊々杵尊を祀っているのだともいい、これに因んで志呂志神社ともいうのだとか。
志呂志神社の地図
稲荷山古墳
志呂志神社のすぐ南側に隣接して「稲荷山古墳」があります。
明治三十五年(1902年)に道路工事のときに発見された前方後円墳で、六世紀前半に造られたと推定されています。
発見当時は横穴式石室があったといい、凝灰岩製の家形石棺が見つかっています。
現在は古墳の上に建屋が設けられ、その中に家形石棺の実物があり見学できるようになっています!
この石棺の中や外からは非常に多くの副葬品が出土しており、畿内や海外との繋がりを持ったこの地の有力者が葬られたことが考えられます。
具体的には継体天皇を支えた三尾君という氏族に関係するのではとする説があるようですよ!
稲荷山古墳の地図
「長田神社」へ
続いて、鴨の一つ南側の永田というところへやってきました。
ここには次の目的地の「長田神社」が鎮座しています!
先ほどと同様、鳥居をくぐると舞殿のような拝殿、そしてその奥に本殿が建っています!
長田神社の御祭神は「事代主命(ことしろぬしのみこと)」。相殿には「天鈿女命(あめのうずめのみこと)」を祀っています。
こちらの神社も式内社で、創建は天安二年(858年)と伝えられているものの、その他の由緒ははっきりしません。
相殿に祀られている天鈿女命は、次に訪れる水尾神社から洪水の際にここまで流されてきた神様と伝えられています。
長田神社の地図
「水尾神社」へ
永田から今度は西へと歩いていくと拝戸(はいど)というところがあり、ここに「水尾(みお)神社」が鎮座しています!
水尾神社もまた式内社ですが、ただの式内社ではありません!
『延喜式』には水尾神社について「名神大社」と記してあるのです!
名神大社とは特に霊験の著しいとされる神社に付与された社格で、古く国家の一大事のときには臨時で祈願を行う神社でもありました。
近江国高島郡(現在の滋賀県高島市)ではこの水尾神社が唯一の名神大社であり、つまり今の高島市で最も格式の高い神社がここだったことになるのです!
それでは鳥居をくぐってお参りしましょう!
境内はとても広いですが、社殿の配置はこれまで見てきたのと同様。手前に舞殿風の拝殿があり、奥に本殿が建っています。
御祭神は「磐衝別命(いわつくわけのみこと)」と「比咩神(ひめのかみ)」。
磐衝別命とは垂仁天皇の第十皇子にあたる人物。『古事記』や『日本書紀』には「三尾君の祖」であると記されています。
上にも書いたようにこの三尾君という氏族は継体天皇(男大迹王)を支えた氏族だったと考えられます。
さらに継体天皇の母にあたる振媛は磐衝別命の子孫であるとも考えられています。
このように継体天皇と非常に関係の深い三尾君が祖神を祀ったのがこの神社だったと推測されているのです!
ちなみに伝承では、磐衝別命は猿田彦命の天成神道を学ぶためにこの地を訪れ、この地で亡くなったために、子の磐城別王(いわきわけのきみ)が父を背後の三尾山に葬って、父を祀る社殿を建てたのが水尾神社だと伝えられています。
『古事記』や『日本書紀』には磐衝別命に関する事跡が記されていませんが、この地では重要な人物として語り継がれていたようですね!
訪問時はたまたまイベントがあって神輿庫が開放されていたので神輿を見学させてもらいました!
この神輿は第八代将軍の徳川吉宗が奉納したというとても立派なもので、入母屋造の珍しい神輿となっています!
ただこの地は特に徳川家と縁があるわけでなく、なぜ徳川吉宗が神輿を奉納したのかはっきりしないそうです。
水尾神社の地図
「宇伎多神社」へ
続いて拝戸から北東へ向かって鴨川を渡ると、野田というところに「宇伎多(うきた)神社」が鎮座しています!
『延喜式』にも「宇伎多神社」が記されていて、ここもいわゆる式内社です!
ただ、「宇伎多神社」は他にもいくつかの候補地があり、ここはその一つという位置付けになります。
鳥居をくぐって参拝しましょう!
正面奥には拝殿が建っていますが、金属製サッシのガラス扉が付いててなんだかあまり神社建築っぽくありませんね!
でもその後方へと回ってみるとちゃんと本殿が建っています!
宇伎多神社の御祭神は「八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)」。
創建年代や由緒などは残念ながらほぼ何もわかりません。
中世にはこの地を支配した高島高信という人物(佐々木信綱の次男にあたる)が崇敬して社領を寄進したと言われているようです。
宇伎多神社の地図
「箕島神社」へ
野田から北東へ、安曇川駅の方へと戻っていきます。ここまで安曇川駅から南西方面をぐるっと一周してきた感じですね!
安曇川駅のすぐ南側の三尾里(みおざと)というところに次の目的地「箕島(みしま)神社」が鎮座しています!
鳥居をくぐって参拝しましょう!
こちらの拝殿も舞殿風のもので、ここまで見てきた中では一番立派な造りです!
拝殿の後ろには本殿が建っています!狛犬が二対並んでいるのが特徴的ですね!
中央手前に竈があるのも特徴でしょうか。滋賀県では竈のある神社が多いのですが、ど真ん中にドンと置かれているのはやや珍しい例です。
箕島神社も『延喜式』に記されている式内社です!
箕島神社の御祭神は資料によって異なるものの、おおむね「大山積命(おおやまづみのみこと)」もしくは「事代主命(ことしろぬしのみこと)」とされています。
どちらも全国にある三島神社の御祭神として祀られている神様で、こちらの神社も(漢字は違うけれど)社名の通り三島信仰の神社とされているようです。
ただ、滋賀県では三島信仰の神社はかなり珍しい例です。創建年代や由緒ははっきりしませんが、古い時代に三島信仰を伝えた人がいたのかもしれませんね!
箕島神社の地図
「安閑神社」へ
同じく三尾里、箕島神社の200mほど西側に「安閑(あんかん)神社」が鎮座しています。
小さな神社ですがこちらにもお参りしておきましょう!
御祭神は社名の通り「安閑天皇」。
創建年代や由緒ははっきりしませんが、安閑天皇は継体天皇の子にあたることからこちらも継体天皇に関連する神社なのかもしれませんね。
さてこちらの安閑神社、境内に二つの特徴的な石が覆屋に安置されています!どちらも面白いものですよ!
まず右側にある三角形の大きな石は「力石」とか「水口石」とか呼ばれています!
これについて、鎌倉時代の説話集『古今著聞集』に次のようなお話が記されています。
『古今著聞集』(あらすじ)
昔この村に大井子という名の大変力持ちの娘がいた。この村で田の水争いがあったとき、大井子の田に水が引かないようにされてしまった。大井子は夜の間に大きな石で水口を塞いで大井子の田に水が流れるようにし、大井子の田が潤う様子を見た村人は百人の力でもこの石を動かせなかった。そこで村人は「今後は好きなだけ水を引いてもいいので石をどかしてほしい」と大井子に頼み、これを受け入れて石をどかした。その後は水争いはなくなった。
この力持ちの大井子が水口を塞いだという石がこの「力石」「水口石」なのです!
筋肉モリモリの大男でもとても持ち上げられなさそうなこの大きな石を、女性が一人で持ち上げたというのですから驚きですね!
そして左側に置かれている石!恐らくこちらの方が有名でしょう。
何やら不思議な文様が刻まれていますね!これは神代文字、つまり漢字が入ってくるより前の古い時代に使われた文字ではないかとも言われています!
実際にはこれが文字体系であるとは考えにくく、神代文字と呼ぶのは適切ではないでしょう。
とはいえこれが何であるかは全くの謎です!
古墳の石室の線刻ではないかとも言われているものの、少なくとも近隣には類例が無く何とも言えません。
いずれにしてもとっても不思議なものですね!
安閑神社の地図
「白鬚神社」へ
安曇川駅から電車で一駅戻って近江高島駅へ来ました!
近江高島駅から琵琶湖に沿って南へと歩いて行きます。
青い琵琶湖と白い砂浜がとってもきれいですね!背後に山が見えるのも瀬戸内海に通じる美しさが感じられます!
山が琵琶湖にせり出した鵜川というところに「白鬚(しらひげ)神社」が鎮座しています!
交通量の多い国道スレスレのところに鳥居が建っているので鳥居の写真は諦めて、早速お参りしましょう!
山と琵琶湖とのごくわずかな平地に立派な社殿が所狭しと建っています!
後ろに建っている本殿は特に立派なもの!
慶長八年(1603年)に豊臣秀頼の命で建てられたとっても貴重な建物で、国の重要文化財に指定されています!
白鬚神社の御祭神は「猿田彦命(さるたひこのみこと)」。
白鬚神社は江戸時代以前は「比良社」と呼ばれていました。背後に連なる比良山の神様を祀っているのだとも言われています。
伝承では垂仁天皇二十五年に倭姫命によって創建されたと伝えられており、一説には近江国(現在の滋賀県)で最古の神社であるとも言われています!
ただ、こちらの神社は『延喜式』に記されておらず、つまり式内社ではありません。
しかし延喜式より古い『三代実録』という歴史書に「比良神」が見え、これがこちらの神社だとされています。
つまり『延喜式』には記されていないけれど、『延喜式』が編さんされた時代には既に存在していたことになるのです!
このように式内社ではないけれど『延喜式』編さん時点より前に既に記録に見えている神社は「国史現在社」もしくは「国史見在社」と呼ばれています。
こうした国史現在社はいくつかの例があり、『延喜式』に記されていない理由も様々で、単純に記載漏れだったり、あるいは神社でなくお寺と見なされていたりすることが挙げられます。
白鬚神社(比良社)の場合はどうだったのかわかりませんが、いずれにしても古い神社であることは間違いありません!
そして白鬚神社といえばこちら!琵琶湖に浮かぶ鳥居がとっても有名ですよね!
SNSでその存在が知られるようになっており、近年特に人気があるところとなっています!
伝承では元々は陸上にあったものの、琵琶湖の水位が上がったために湖に建つようになったと言われています。
また別の伝承では元々は湖の中にあったのが現れた、とも言われていたようです。
白鬚神社の地図
帰路へ
近江高島駅へ戻って大阪へ帰ります!
帰りは新快速で乗り換えなしで楽々大阪へ帰れました!
途中、新快速からはこのように琵琶湖の景色を楽しむことができました!
湖西線は琵琶湖に近く、しかも高架になっているので琵琶湖がよく見えます!
これもまた近年SNSでよく知られてきていますね!
まとめ
このように今回は地味な神社が多かった旅ではありました。
とはいえ継体天皇を通して#004で訪れた福井県越前市ともつながりを感じられ、実に有意義な一日だったと思います!
また近年特に有名な白鬚神社の鳥居をとても良い条件で眺めることができ、これも大きな収穫だったと言えることでしょう!
やはり人気あるだけあってとても美しいところだったので皆さんも一度訪れてみてはいかがでしょうか!
アイキャッチの元画像はCi-enの記事に公開しているのでこちらも是非見てみてくださいね!