先日、5/22に奈良県奈良市に行ってきました!
ただ、奈良市とは言っても皆さんがよく知ってる“奈良”とは全然違います!
上の地図をご覧ください。赤線で奈良市の範囲が示されていますが、“奈良”と聞いて想像されるのは実はこの範囲の左側1/3ほどのみ!
右側の2/3は山の中で、大仏などで知られるいわゆる“奈良”とは全く違う静かな田園地帯が広がっているのです!
ここは「大和高原(やまとこうげん)」と呼ばれていて、標高が高く、一面になだらかな山並みが連なり、特に冬場は寒い気候であるのが特徴です。
そしてもう一度上の地図をご覧ください。赤線で示された奈良市の右下に突き出た部分があるのがわかりますでしょうか?
この辺りは2005年に奈良市に合併されるまでは「都祁(つげ)村」という自治体だったところです。
そして今回訪れたのはまさしくこの旧・都祁村だったところです!
この大和高原にある旧・都祁村は上にも書いた通りいわゆる“奈良”とは全く違った光景です。
果たして具体的にはどんなところなのか、とっても楽しみですね!
※以下、当記事では今回訪れた旧・都祁村(現・奈良市南東部)を「都祁地域」と表記します。
目次
都祁地域へ!
まずは榛原駅へ
今回は前回の名張市行きと全く同じ要領で近鉄電車に乗ります!
前回と同じ時刻の急行に乗ると、前回と同じ前向きに座れる椅子(転換クロスシート)の豪華な電車でした!
今回降りたのは榛原駅。奈良県宇陀市の代表駅です!
今回行く都祁地域は奈良市ですが、奈良駅でなく別の市の駅からの出発です!
「三陵墓古墳群」へ
榛原駅から針インター行きのバスに乗ります。
急な坂をひたすら登っていくとその先には田園風景!今回はそこからしばらく進んだところの「南白石」というバス停で下りました!
バス停から西へと歩いて行きます。
この辺りは古そうな民家も結構多くありますね!
三陵墓東古墳
しばらく歩いていくとなんだか巨大な土盛っぽいものが見えてきました。
実はこれ、古墳なんです!
これは「三陵墓東古墳(さんりょうぼひがしこふん)」と呼ばれる前方後円墳で、「三陵墓古墳群」を構成する古墳の一つ。
墳丘の長さは110mにもなり、都祁地域をはじめとする大和高原ではかなり巨大なものです!
この古墳は整備されていて上ることができちゃいます!
早速後円部に上ってみるとこのような感じ!
二枚目は後円部から前方部を見た様子です!
この三陵墓東古墳は5世紀後半頃に造られたものと推定されています。
有名な古墳と比較すると、仁徳天皇陵(大仙陵古墳)よりもちょっと後に造られたことになります。
都祁地域一帯を支配した首長が葬られたと考えられていて、具体的には古い記録に見える「都祁直」や「闘鶏国造」と関係あるのではとも言われています!
三陵墓東古墳の地図
三陵墓西古墳
三陵墓東古墳の辺りは公園となっていて、ここを西へと進むともう一つ古墳があります。
これは「三陵墓西古墳(さんりょうぼにしこふん)」と呼ばれていて、さっきと同様「三陵墓古墳群」を構成する古墳の一つとなっています!
こちらは直径40mほどの円墳です!
こちらも上れるようになっているので上ってみましょう!
墳丘上にある二つの長方形は発掘調査で見つかった埋葬施設の跡。小さな方は後から追加で葬られたもののようです。
そして墳丘上の周囲には埴輪のレプリカが並べられていて、埴輪越しに周りの様子がよく見えますね!
こちらの三陵墓西古墳は5世紀前半頃に造られたものと推定されています。
つまり、さっきの三陵墓東古墳よりも先にこちらが造られたことになるようです!
都祁地域で初めて造られた大型の古墳であると言え、強大な勢力を持ち始めた首長が葬られているのではと推定されます。
古墳の大きさからすると、この次の三陵墓東古墳の時代に最盛期を迎えたのではと想像が膨らみますね!
ちなみにこの三陵墓西古墳の前にはちょっと不気味な顔の古代人の像が立っています。
ここを訪れたときにTwitterでこの像の写真を投稿したところ大好評(?)でした!
三陵墓西古墳の地図
三陵墓南古墳
三陵墓古墳群は「三陵墓」の名前の通り、三つの古墳で構成されています。
では残りの一つはどこにあるのかというと、三陵墓西古墳の南側にある丘の上にあって「三陵墓南古墳」と呼ばれています!
こちらは墳丘の上に「稲荷神社」の祠が鎮座しています。
ただ、こちらは整備されておらず、発掘調査も行われていないそうで詳細ははっきりしません。
直径16mの円墳で、6世紀頃に造られたものと推定されています。
さっきの二つと比べると時期は遅く、規模も格段に小さくなってしまっています。
三陵墓南古墳(稲荷神社)の地図
背後に磐座のある「都祁山口神社」へ
三陵墓古墳群から南西の方を目指して歩いて行きます!
ちょっとした峠も越えつつ、基本的には上の写真のようなのどかな光景が広がっています。
さらにぐんぐん進んでいくと、都祁小山戸町(つげおやまとちょう)というところに次の目的地「都祁山口(つげやまぐち)神社」が鎮座しています!
丘の北麓にあるので珍しい北向きの神社となっています。
鳥居をくぐると参道は鬱蒼とした森に覆われていていかにも神々しい感じ!
この奥に神門のような建物があるのでここをくぐって参拝しましょう!
さっきの建物をくぐると奥に拝殿と本殿が建っています。
御祭神は「大山祇神(おおやまづみのかみ)」と「大國主命(おおくにぬしのみこと)」の二柱。
さて、都祁山口神社は1100年ほど前に編さんされた法典『延喜式』に記されている神社、つまりおなじみ「式内社」の一つです!
実は『延喜式』には、特に大和国(現在の奈良県)には「○○山口神社」という名前の神社がたくさん記されていて、その一つがここ都祁山口神社です!
これらはかつて大和国の水源や木材の供給源となる重要な山に朝廷が国家的に山の神を祀った神社と考えられます。
大和国は朝廷のおひざ元。しかも奈良県は水不足になりやすいことで知られています。
それだけに大和国の水源の確保と管理は国家的にとっても重要で、それを実現するために山の神を祀ったのです!
ただ国家的に祀られたとはいっても、もしかしたらより古くからの信仰があったかもしれません。
社殿の横から丘の上の方へ行ける道が伸びており、この先にそう思わせるものがあります!
斜面を登っていきつつ道を進んでいくと、最も奥となる場所に鳥居が建っているのが見えてきます。
この鳥居の先には…
このような岩石があります!
この岩石は「御社尾(ごしゃお)」と呼ばれており、伝承では神様が白龍となって降臨したところだとも言われています!
磐座があるからといってただちに古いと断言はできません。
とはいえ、「都祁山口神社」として国家的に祭祀されるより前から素朴な磐座の信仰があったのではと想像が浮かびますね!
都祁山口神社の地図
詳細:『神社巡遊録』都祁山口神社 (奈良県奈良市都祁小山戸町)
都祁山口神社の鳥居の前に広がる田圃に何やら気になる木があります。
畦を壊さないように気を付けつつ、ちょっと近くまで行ってみましょう。
近づいてみるととても小さな森のようになっていて、その根元には鳥居が建っています。
ここは「森神さん」と呼ばれていて、何らかの祭祀が行われているようです。
ただ、どのような由緒があるのか、都祁山口神社と関係があるのか等の詳細はよくわかりません。
森神さんの地図
氷室の跡のある「葛神社」へ
都祁山口神社から西を目指して歩いていきます。
迷路のような複雑な道となっているため地図が手放せません!
ふと周りを見ればこのような景色。まさに田舎の農村といった光景ですね!
西側には藺生町(いうちょう)というところがあり、ここにある谷の奥に次の目的地「葛(くず)神社」が鎮座しています!
早速鳥居をくぐってお参りしましょう!
後ろに建っている本殿は比較的新しい建物です!
御祭神は「出雲建雄神(いずもたけおのかみ)」。『延喜式』に記されている「出雲建雄神社」はこの神社であるとする説もあるようですよ!
さて、この地は淀川水系と大和川水系の境界の地であり、古くから水源地として重視されたと言われています。
伝承では昔この地に溜池を作ろうとしたとき、ある娘が馬に乗って嫁入りに通り、この娘を生きながらに埋めて堤にしたと言われています。
その池の堤にはかつて「泊瀬(はつせ)社」という祠があり、毎年六月一日には「泊瀬祭」というお祭りが行われたと言われています。
その後その池はなくなり、藺草(いぐさ)が生えたためにこの地を「藺生」と呼ぶようになったとか。
その池や「泊瀬社」とこの葛神社との関係ははっきりしないものの、「泊瀬祭」が後にこの神社の夏祭りになったとも言われています。
さてこの葛神社、草が生えててわかりにくいですが境内から奥の森の方へ道が伸びています。
ここを進んでいくと…
このようなクレーターのような大きな穴があります!
これ、何だかわかりますでしょうか?
実はこれ、「氷室(ひむろ)」の跡と言われています!
氷室とは、冬場に氷を貯蔵して夏に取り出すための施設。
冷蔵庫が無かった時代、暑い夏に氷を提供するためのものですね!
もちろん寒い地域じゃないとできないもので、この地の気候の特性がこのように生かされたわけです!
そして実はこの都祁地域で氷室が作られたことは『日本書紀』にも載っています!
相当古くからこの地の寒さを生かして氷が貯蔵されていたことがわかりますね!
葛神社の概要
都祁地域の中心「都祁水分神社」へ
葛神社から北へ、都祁友田町(つげともだちょう)というところへ行くととっても広大な森が見えてきました!
ここが次の目的地「都祁水分(つげみくまり)神社」です!
入口となる鳥居からは長い参道が続き、両側は杉などの木が鬱蒼と生い茂っています!
参道を奥へと進むと社殿などが建ち並ぶ広場があります。
この広場の中央に神楽などを舞うための舞殿、そして奥に拝殿が建っています。
そして舞殿の左右には神事に用いられる詰所も建っており、こうした社殿の配置は実は京都府南部でよく見られるものだったりします!
そして本殿は明和八年(1499年)に立てられたとっても貴重な建物で、国指定重要文化財となっています!
都祁水分神社の御祭神は「速秋津彦神(はやあきつひこのかみ)」「天水分神(あめのみくまりのかみ)」「国水分神(くにのみくまりのかみ)」の三柱。
社名や神名の「水分(みくまり)」とは「水配り」の意で、つまりは水を管理して適切に分配することを指します。
そして水分神とは水の管理を司る神様とされています。
そして都祁水分神社も『延喜式』に記された神社、つまり式内社です!
『延喜式』には「○○山口神社」と同様、ここのように「○○水分神社」という名の神社がいくつか記されています。
これらも水の管理や分配のために朝廷が国家的に水分神を祀ったものであることが考えられます!
一方で伝承では、ここの神様は元々は都祁山口神社の地に鎮座していて、天禄二年(971年)に現在地に遷った、と伝えられています。
そうなると都祁山口神社と都祁水分神社は同じところに祀られていた、もしくは同じ神社だった、ということになってしまいます。
この辺りを深掘りするととっても長くなるので、詳細を知りたい方は姉妹サイト『神社巡遊録』の「都祁水分神社」「都祁山口神社」の記事をご覧くださいね。
いずれにしてもこの都祁水分神社は都祁地域において非常に有力な神社となり、今や都祁地域の総鎮守というべき神社となっています!
中世には上記のようにとても立派な本殿も建てられ、まさに都祁地域の信仰の中心となる名社と言えることでしょう!
都祁水分神社の地図
詳細:『神社巡遊録』都祁水分神社 (奈良県奈良市都祁友田町)
山を御神体とする「雄神神社」へ
都祁水分神社から東へと歩いていき、都祁白石町(つげしらいしちょう)というところへやってきました。
ここは実は最初にバスを降りた南白石バス停からほど近い場所。つまり都祁地域を一周して戻ってきた感じです!
この都祁白石町の東側には「野野上岳」という山があります。この山は西側と東側に頂があり、西側を「雌神山」、東側を「雄神山」と呼びます。
この山を目指して歩いていきましょう!
野野上岳の南西の麓に鎮座しているのが次の目的地「雄神(おがみ)神社」!
こちらもまた深い森に覆われています!
さっそく鳥居をくぐって参拝しましょう!
さて本殿を見ようと拝殿の後ろへ回ってみると…
なんと本殿がありません!
代わりに鳥居が建っていて石が置かれています!
実はこの雄神神社は背後の野野上岳を神体山としています。つまり後ろの山が御神体となっているのです!
山が御神体になっているので本殿は建てず、鳥居を立てて遥拝所のようにしているのですね!
ちなみにこちらの御祭神は「出雲健男命」。さっきの葛神社と同じですね!
そしてやはり葛神社と同様、『延喜式』に記されている「出雲建雄神社」はここだとする説があるそうですよ!
雄神神社の地図
さて雄神神社へ行く途中、田圃の中に小さな森がいくつかありました!
これらの森は「休ん場(やすんば)」と呼ばれていて、神様が往来するときに休むところと言われています!
これら「休ん場」は雄神神社の西側に計四つあります!
田圃の中にありながら、伐採されたりせず今もこうして残しているのは、きっと今も神様のための大切なところとされているからなのでしょう。
旧地が林の中にある「下部神社」へ
雄神神社からはひらすら南へと歩いていきます。
ちょっとした峠を越えて都祁吐山町(つげはやまちょう)というところへ!
この都祁吐山町には「下部(しもべ)神社」が鎮座しています!
こちらもさっきの都祁山口神社と同じく、珍しい北向きの神社となっています。
さっそく鳥居をくぐってお参りしましょう!
地味な拝殿とはうってかわって、後ろの本殿は朱塗りの鮮やかな建物ですね!
こちらの御祭神は「彦八井耳命(ひこやいみみのみこと)」。
下部神社も『延喜式』に記されている神社、つまり式内社です!
ただし、ここは古くから下部神社だったわけでなく、元々は春日神社という神社でした。
かつて下部神社は別の地に鎮座していたものの、明治四十年(1907年)に神社合祀政策で春日神社に合祀され、社名もこちらが下部神社に改められた、という経緯があるのです!
下部神社(現在地)の地図
下部神社の旧地
さて、上にも書いたように下部神社は元々は別の地にありました。
その場所には今も旧地が残っているので行ってみましょう!
旧地は現在地の南東850mほど。
「はやまの森野営場」というキャンプ場のすぐ近くの林にあります!
キャンプ場の入口をスルーして右側の道をちょっと進むと、林の中に鳥居が現れます!
鳥居をくぐって進んでみると、「下部神社址」と刻まれた石碑が建っていました!
そう、ここが下部神社の旧地なのです!
さてこの下部神社について。
この地に居住していた星川氏という氏族が都祁国造氏の祖を祀ったのが下部神社である、とも言われていますが不自然な点も多く詳細は不明です。
どの点が不自然かを書くと長くなるので、詳細は姉妹サイト『神社巡遊録』の「下部神社」の記事をご覧ください!
下部神社(旧地)の地図
※マーカーは「はやまの森野営場」となっていますが下部神社の旧地はこのすぐ近くです。
帰路へ
これで今回の目的地は全て訪れることができたので帰路に就きます!
帰りは下部神社(現在地)の近くにある吐山バス停から榛原駅行きのバスに乗ります!
榛原駅からは大阪上本町行きの快速急行!
なんと、またまた転換クロスシートの豪華な電車に当たってしまいました!
実は前回の名張市行きに乗ったのと同じ曜日・同じ時間の電車で、どうやら豪華な電車は走ってる時間が決まってるようですね!
今回も快適に大阪へ帰ることができました!
まとめ
今回は一応「奈良県奈良市」ということになりますが、皆さんの思い描いていた“奈良”とは全く違うものだったと思います!
今回の都祁地域をはじめ大和高原はこのように自然豊かでのどかな風景の広がる一帯です。
そして素朴な信仰もよく残っていることも挙げることができると思います!
交通の不便なところが多いためなかなか訪れることはできませんが、機会があればまたじっくり歩いてみたいところですね!