今回は過去編!広島県福山市の南にある古い港町、「鞆(とも)の浦」というところへ行ったお話です!
かつて鉄道が開通する前、移動の主な手段は徒歩か船でした。
その船が大活躍していた時代、特に瀬戸内海を船で往来するときは潮や風の流れに乗ることが重要でした。
そこで良い潮や風が来るまで待つための港町が瀬戸内海のあちこちに作られていったのです。
瀬戸内海のほぼ中央にある鞆の浦は地形的にも優れ、古くからとっても重要な「潮待ち」「風待ち」の港だったのです!
加えて、瀬戸内海の多くの港町は開発の波に飲まれたのに対し、鞆の浦は昔ながらの港町の光景がよく残っているのです!
今回はそんな鞆の浦を訪れちゃいます!
どんな旅になるのか楽しみですね!
目次
広島県福山市の鞆の浦へ!
まずは福山駅へ
この日は夏のとっても天気が良い日!
18きっぷで向かいますが、まずは新大阪駅から姫路駅まで新幹線でプチワープしちゃいます!
姫路駅からは三原駅まで直通の電車があるのでこれに乗っちゃいます!
乗った電車はおなじみ緑とオレンジのかぼちゃ色の電車!
今回は福山駅で降ります。
ここからはバスで鞆の浦へ向かいます!
鞆の浦の守り神「沼名前神社」へ
バスに乗って「鞆の浦」停留所で降ります!
すぐそばが海ですが、海を楽しむのは後にしてまず最初に近くの神社へお参りしたいと思います!
バス停から西の方へと進んでいくと鳥居が建っています!
さらに進んでいくと最初の目的地「沼名前(ぬなくま)神社」が鎮座しています!
神門をくぐりつつ石段を上っていくと立派な社殿が建っています!
早速お参りしちゃいましょう!
さて沼名前神社について。御祭神は「大綿津見命(おおわたつみのみこと)」と「須佐之男命(すさのおのみこと)」の二柱です。
こちら沼名前神社は1100年前に編さんされた法典『延喜式』に乗っている神社、つまりお馴染み式内社です!
実はこちらは、「渡守(わたす)神社」と「鞆祇園宮(ともぎおんぐう)」という二つの神社を明治年間に一つの神社にして「沼名前神社」という名前にした、という経緯があるのです。
この内の「渡守神社」は、神功皇后が当地の霊石に大綿津見命、つまり海の神様を祀って海路の安全を祈ったのが始まりと伝えられています。
対して「鞆祇園宮」は創建年代や由緒はよくわからないものの、京都の八坂神社の神様と同じ神様を祀る神社として古くから厚く信仰されていたようです。
慶長四年(1599年)に鞆祇園宮に火災があったようで、その後に今の地に鞆祇園宮の社殿を建てて、そこに渡守神社が境内社として遷ってきたと言われています。
そして上記のように明治に至ってこの二つの神社を合わせて一つにしたのです!
式内社「沼名前神社」はこの二つの内の「渡守神社」がそうだとする説があるため、明治の合併の際に「沼名前神社」と名乗ることになりました。
でも式内社「沼名前神社」はここじゃないとする説もあり、一筋縄ではいかないようです。
沼名前神社の境内にこのような丸っこい石が大量に置いてありました。
これは「力石」というもの。かつて娯楽として腕に自身のある者が力試しにこれを持ち上げて力のあることをアピールしたのです!
こうした力石は交通の要所や港など人の多く集まるところによく置かれたものでした。
特に港では船の荷物を持ち上げたりする力自慢がよく集まったので力石もよく置かれたそうですよ!
沼名前神社の力石もかつて鞆の浦に集まった力自慢が持ち上げたもの。
鞆の浦の港町としての賑わいを示すものだったりします!
沼名前神社の社殿から少し下りたところには能舞台が建っています。
実はこれ、豊臣秀吉が築いた伏見城にあったものを移築したものなのです!
初代福山藩主の水野勝成が二代将軍の徳川秀忠からこの能舞台を譲り受けて福山城に移築、三代福山藩主の水野勝貞が沼名前神社に寄進したそうです!
この能舞台はとっても貴重な建築として国指定重要文化財に指定されていますよ!
沼名前神社の地図
鍛冶の神様を祀る「小烏神社」へ
バス停から沼名前神社へ行く途中、神社が鎮座しているのが見えました。
一旦スルーしましたが、せっかくなので戻って行ってみましょう!
こちらの神社は「小烏(こがらす)神社」!
早速参拝しちゃいましょう!
後ろの本殿はこのような感じです。
小烏神社の御祭神は「小烏大神(こがらすおおかみ)」と「天目一箇神(あめのまひとつのかみ)」。
実は鞆の浦は港町というだけでなく刀鍛冶も盛んなところでした!
船が多く集まるところだったので、船を作ったり修理したりするのに金属加工の技術が必要だったようです。
こうした技術が発展して刀鍛冶も行うようになっていったそうな。
そしてこちらの神社は、こうした刀鍛冶の守護神を祀っているのです!
本殿の横には境内社として「天目一箇神社」が鎮座しています!
案内板の解説では本殿に「天目一箇神」を祀っているようなニュアンスですが、それとは別にこちらでも祀っているのでしょうか?
いずれにしても、この「天目一箇神」とは金属の神様です!#001の旅でも出てきましたね!
天目一箇神はその名の通り目が一つの神様とされています。そしてこのように目が一つの神様が金属の神様でもあるというのはギリシア神話のキュクロープスなど世界的にも見られることが指摘されています!
その理由ははっきりしませんが、一説には鍛冶の際に片目で火の様子を見続けるから片目が悪くなってしまった様子を神格化したものでは、とも言われています!
小烏神社の地図
風情ある古い港町「鞆の浦」を散策
鞆の浦の港
さていよいよ本格的に鞆の浦を散策しちゃいましょう!
南の方へと歩いていくと海が広がっています!
上にも書いたように、鞆の浦は良い潮や良い風が来るのを待つ「潮待ち」「風待ち」の港町でした。
かつて瀬戸内海を往来する船は一旦この港に入って良いタイミングが来るのを待っていたわけですね!
そしてここ鞆の浦の歴史はとっても古く、『万葉集』にも鞆の浦を読んだ歌が八首も載っているのです!
さらに発掘調査からは弥生時代から既に鞆の浦に人が住んでいたと考えられているそうですよ!
港の岸を見てみると石が階段状に積み上げられています!
実はこれは「雁木(がんぎ)」というもの。
瀬戸内海は干満の差がとても激しいため、干潮でも満潮でも船を着けるのに支障のないようにする必要がありました。このための仕組みが「雁木」なのです!
岸をこのように階段状にすることで潮の干満に関係なく船を安全に陸に着けることができ、いつでも人の乗り降りや荷物の積み込み・積み下ろしを行うことができたのです!
そして鞆の浦の象徴といえばこの常夜灯!
海辺に建つ常夜灯は今の灯台と同じく、夜でも船が安全に通るための標識です。
古い港町には常夜灯がよく建っていますが、鞆の浦のものは特に規模が大きく、海に突き出ていてとっても美しいものですね!
この常夜灯は幕末の安政六年(1859年)に建てられたもの。
航海の神様である「金毘羅大権現」の扁額も掲げられていて、まさに海の安全を見守ってきた常夜灯と言えますね!
ちなみにこの記事のアイキャッチ画像はここで撮影したものですよ!
鞆の浦常夜灯の地図
鞆の浦の町並み
鞆の浦は港だけでなく、町並みもとっても美しいのです!
多くの船が立ち寄った鞆の浦は多くの人で賑わい、国内有数の港町としてとっても栄えました。
今でもその様子がしのべるような、江戸時代以来の建物が多く残っています。
特に港に近い地区は古い家屋が多く、美しい光景を今に残しています。
このとっても貴重な景観が評価されて、2017年には重要伝統的建造物群保存地区に選定されました!
実は鞆の浦は、港の上に橋を架ける計画があり、住民を真っ二つに分断する大問題に発展していました。
鞆の浦は道路が狭く交通がとても不便で、その改善が急がれていました。
しかしその解決策として出された架橋は鞆の浦の景観を大きく損なうものでもありました。
長い論争の末、山側にトンネルを建設することで架橋は取りやめとなり、貴重な景観は後世に残されることになったのです!
そのような大問題があったとはつゆ知らず、鞆の浦を闊歩する猫ちゃんは大あくびしていました!
国重文の住宅建築「太田家住宅」
常夜灯の近くには「太田家住宅」という古い商家の屋敷が残っていて国の重要文化財に指定されています!
鞆の浦では「保命酒(ほうめいしゅ)」という漢方薬酒が名物で、ここ太田家住宅では江戸時代から保命酒が造られていました!
幕末の政変で都落ちした三条実美もここに立ち寄ったといい、実は歴史の舞台でもあるのです!
そしてここ「太田家住宅」は内部を見学することもできちゃいます!
今回の旅では時間の都合上見学はしませんでしたが、格式高いお部屋や保命酒の造り方などを見ることができるそうですよ!
太田家住宅の地図
「おてび」さんでお昼ご飯
ここでお腹が空いたのでお昼ご飯!
お昼は鞆の浦の町中にある「おてび」さんで頂きました!
こちらでは地場のお魚をふんだんに味わうことができます!
頂いたのは「刺身定食」!とても多くの種類のお魚を味わうことができてとっても満足です!
「おてび」さんの地図
鞆の浦の浜辺
鞆の浦の海岸は常夜灯から西へ大きく湾曲するように伸びています。
この西側の海岸には浜辺があり、船をつなぐための多数のロープがあります。
弧を描くような海岸線が青空に映えてとっても美しいですね!
この辺りにはかつて「焚場(たでば)」がありました。
焚場とは、かつて和船が主流だった頃、船を引き上げて底を火であぶってフジツボや海藻などを落とす場所。今でいうドックのようなものですね!
江戸時代に焚場の石垣があったのですが、今は海中に沈んでいるらしく残念ながら見ることができません。
鞆の浦の道路
この海岸沿いの道路はこのような感じ。家が密集していてとっても狭いですね!
しかし鞆の浦の西側とを結ぶ道はここしかなく、車がすれ違えない狭さにも関わらず多くの車が通ることになります。
そのためこの道では信号で片方向ずつ進行を切り替える片側交互通行が行われているのです!
この不便さのために上に書いた架橋問題があった、というわけですね!
眺めが美しい「淀媛神社」へ
さて、この狭い道の途中、大きくカーブするところに神社が鎮座しています。
ここは「淀媛(よどひめ)神社」という神社です!
淀媛神社の鎮座するところは岬になっていて、鳥居をくぐって石段を上っていくと小高いところに社殿が建っています!
早速参拝しちゃいましょう!
淀媛神社の御祭神は「淀姫命(よどひめのみこと)」。神功皇后の妹にあたる人物と言われています。
神功皇后といえば、さきほど参拝した沼名前神社の前身となった神社の一つ、渡守神社でも由緒に出てきましたね!
一説には神功皇后の妹である淀姫が渡守神社の神主となったともいい、後にこの淀姫を神様として祀ったのがこちらの神社だとも言われているようです!
そして淀媛神社は岬の上に鎮座するだけあって眺めが抜群です!
社殿からはこのように美しい瀬戸内海を見渡すことができちゃいます!
社殿の横からも美しい景色を眺めることが可能!
こちらからは鞆の浦の東側にある仙酔島がよく見えますね!
淀媛神社の地図
再び「鞆の浦」をぶらぶら散策
徒歩で行ける無人島「玉津島」へ
淀媛神社からさらに道を進むと長い堤防が伸びていて、これが沖にある島まで伸びています。ちょって寄ってみましょう!
この島の名前は「玉津島」。島の上には「玉津島神社」という島があるそうですが、荒れていて上には行けませんでした。
玉津島の海辺はまさに「磯」という感じ!
玉津島の反対側には石を積み上げて造られた波止場があります。
この波止場は江戸時代後期に造られたもの。
鞆の浦にはこのように江戸時代に作られた波止場がいくつか残っているのです!
玉津島の地図
境内からの眺めが良い「医王寺」へ
さて道を戻って山の方へ行ってみましょう。
鞆の浦の西側にある山をちょっと上ったところに「医王寺」というお寺があります!
正式には「桃林山慈眼院医王寺」といい、弘法大師が開基したと伝えられる真言宗のお寺です。
ここ医王寺からの眺めは本当に最高です!
このように手前側に鞆の浦の町並み、奥に仙酔島、そして右手には青い海が広がっていて、鞆の浦の様子が一望できちゃいます!
こうして見ると本当に鞆の浦は美しいところですね!
医王寺の地図
戦国時代に築かれた「鞆城跡」へ
今度は鞆の浦の北側にあるちょっとした丘へやってきました。
ここはかつて「鞆城」があったところです!
鞆城は元々は毛利氏が築いたもので、後に福島正則が修築しました。
瀬戸内海の重要な港町に築かれた鞆城は戦国時代においてもとても重要な軍事拠点だったことでしょう。
しかし江戸時代になると元和元年(1615年)の一国一城令によって残念ながら取り壊されてしまったそうな。
今は歴史民俗資料館が建っていて、鞆の浦に関する歴史や民俗など様々なことが学べちゃいますよ!
鞆城跡の辺りからも美しい眺めを堪能できちゃいます!
南側に開けていて、海の向こうの中央にはさきほど訪れた玉津島がよく見えますね!
鞆城跡の地図
再び海のそばをぶらぶら。多くの船が停泊していますね!
かつては商業用の船で賑わっていた鞆の浦も今はほぼ漁船のみ。
昔ながらの景色がよく残る鞆の浦ですが、こういうところでは歴史の流れを感じますね。
港町なのでやっぱり猫があちこちにたくさんいます。
この日一番かわいかった猫はこの子!
帰路へ
ぶらぶら散策していたら良い時間になったのでバスで福山駅へ戻ります!
福山駅で晩ごはんを食べたら在来線で大阪へと戻ります!
乗ったのはグレーのかっこいい色の電車!ちなみに今はもうこの色の電車はなくなってしまったそうです。
この電車は福山駅から姫路駅まで直通なので楽々!
写真には撮っていませんでしたが姫路駅からはおなじみ新快速!
あっという間に大阪へ到着です!
まとめ
今回はこのように鞆の浦の美しい景色を堪能した旅でした!
鞆の浦は歴史の舞台としても重要で、京を追われた足利義明が拠点としたり、江戸時代の朝鮮通信使の寄港地になったり、坂本龍馬も滞在したりと、いろいろな歴史が詰まっているところでもあります!
今回の旅は神社巡りと写真撮影を優先したのでそういった要素はあまりありませんでしたが、いつかまた訪れてそういうテーマで巡ってみたいですね!
一度では味わえ尽くせないほど魅力の詰まった鞆の浦、何度でも訪れたいところです!
アイキャッチの元画像はCi-enの記事に公開しているのでこちらも是非見てみてくださいね!